「和船」 石井謙治著 法政大学出版局 1995年発行
ケンペル
元禄3年(169)9月、長崎出島の商館に、一人のドイツ人が商館付き医師として着任した。
その名はエンゲベルト・ケンペル、当時39歳。
彼は医師のほかに歴史・地理・植物・音楽などの部門も修めた多才な学者で、
しかも外国語はロシア語を含むヨーロッパ7ヶ国語に通じていたという人物であった。
どうして極東の日本に来たかというと、アジア地方、とくに中国に強い関心を持ち、何とか調べたい気持ちから、渡航の足掛かりとしてオランダ東インド会社の船医となり、
ジャワなど各地を回ったのち、長崎の商館付き医師の役を得て来日したということなのである。
ケンペルは、わずか2年間の短い在任にもかかわらず、商館長の随員として2度の江戸旅行を体験することになる。
この江戸参府旅行によって、彼は日本の風土・産業をはじめ民衆の生活に至るまで、さまざまな事象を見聞する機会を得、
そのたぐい稀なる観察力と高い見識を生かして、帰国後に名著『日本誌』を著することになるのである。
日本人の手工業の技巧の優秀性に着目して、
武器・絹織物・漆器のすばらしさを絶賛している。
また当時の海運と商業流通の活発さに目を見張っている。
これは世界的な視野を持つケンペルの見方なのであるから、掛け値なしに受け取ってよいと思う。
(出島のオランダ商館)
ケンペルは鎖国政策を認める立場で、
ともかく彼の考え方の要点は、
日本のように他国よりも天然資源に恵まれているうえ、勤勉な国民によって各種の産業が発達している国、
つまり自給自足で豊かな生活のできる国が、
何も求める物のない外国人たちの奸悪・貪婪・詐欺・戦争などの手段から守るため、
門戸を鎖すのは適切な処置であるばかりであく、そうすべきである、
というのだから手放しの鎖国礼賛なのである。
ケンペル
元禄3年(169)9月、長崎出島の商館に、一人のドイツ人が商館付き医師として着任した。
その名はエンゲベルト・ケンペル、当時39歳。
彼は医師のほかに歴史・地理・植物・音楽などの部門も修めた多才な学者で、
しかも外国語はロシア語を含むヨーロッパ7ヶ国語に通じていたという人物であった。
どうして極東の日本に来たかというと、アジア地方、とくに中国に強い関心を持ち、何とか調べたい気持ちから、渡航の足掛かりとしてオランダ東インド会社の船医となり、
ジャワなど各地を回ったのち、長崎の商館付き医師の役を得て来日したということなのである。
ケンペルは、わずか2年間の短い在任にもかかわらず、商館長の随員として2度の江戸旅行を体験することになる。
この江戸参府旅行によって、彼は日本の風土・産業をはじめ民衆の生活に至るまで、さまざまな事象を見聞する機会を得、
そのたぐい稀なる観察力と高い見識を生かして、帰国後に名著『日本誌』を著することになるのである。
日本人の手工業の技巧の優秀性に着目して、
武器・絹織物・漆器のすばらしさを絶賛している。
また当時の海運と商業流通の活発さに目を見張っている。
これは世界的な視野を持つケンペルの見方なのであるから、掛け値なしに受け取ってよいと思う。
(出島のオランダ商館)
ケンペルは鎖国政策を認める立場で、
ともかく彼の考え方の要点は、
日本のように他国よりも天然資源に恵まれているうえ、勤勉な国民によって各種の産業が発達している国、
つまり自給自足で豊かな生活のできる国が、
何も求める物のない外国人たちの奸悪・貪婪・詐欺・戦争などの手段から守るため、
門戸を鎖すのは適切な処置であるばかりであく、そうすべきである、
というのだから手放しの鎖国礼賛なのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます