しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ミズーリ号

2025年01月06日 | マッカーサーの日本

アジア太平洋戦争の終戦日は、
日本では昭和20年8月15日に記念日だが、国際的には1945年9月2日。

東京湾で米軍の戦艦ミズーリ艦上で降伏文書が交わされた。
署名したのは、
アメリカ
中華民国
イギリス
ソビエト連邦
オーストラリア
カナダ
フランス
オランダ
ニュージーランド
の各代表と、日本代表。

その日から連合軍の日本占領が始まったが、
敗戦国日本では国民のほぼ99%が、
衣・食・住のすべて、またはどれかが不足していた。

国民が、着る・食べる・住む、の人間として最低限の欲求を追い求めているとき、
占領軍は戦後の日本の制度をきわめて短期間で決定した。
最大の例として、日本国憲法は2週間ででき上がった、といわれる。

あれから80年近く経つ。
国民が”食べる”こと以外に目が行かない時に、出来た制度が今につづいている。

 

・・・

「マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行

ミズーリ号


降伏調印式が、なぜ米第三艦隊の旗艦ミズーリ号(45.000トン)の上で行われたのか――。 
進駐当初のマッカーサーの副官だったボナ・フェラーズ准将によると、「元帥は、ほんとうは宮城でやりたかった」。
しかし、ミズーリ号もまた、決して歴史的儀式にふさわしくない場所ではなかった。

第一に、洋上であって、万が一にも日本の〝好戦分子"が降伏調印を妨害しに来る心配がないこと、
第二に、〝ミズーリ〟は時の大統領ハリー・S・トル ーマンの生れた州の名であり、
大統領の娘マーガレットが命名した戦艦だった。
そして第三の理由は、これがいちばんたいせつなのだが、「海軍に花を持たせた」わけである。

というのも、陸軍と海軍の先陣争いは、日本の降伏前から激しかった。
チェスター・W・ ニミッツ太平洋艦隊司令長官は(昭和20年)7月ごろ、
「第三艦隊と海兵隊で、東京湾およびその一帯の戦略拠点を制圧する」作戦を提議したが、
マッカーサーは「水兵の力では日本陸軍の迎撃戦力にかなわない」と退け、
また、「陸軍と空軍が〝二番手〟になることは、あとあと悪い影響を残す」と漏らしたという。

いっさいの儀式が終ったあと、ニミッツ長官はハルゼー大将が先に下した命令、
「日本人にコーヒーもタバコも与えるな」を解除するよう指令し、
「もはや敵でないという事実を証明するかのごとく、(日本全権団は)丁重に送り返された」とある。

この時のマッカーサー元帥の演説「今や砲は鳴りをしずめ・・・・・・」はあまりにも有名であり、 
”演劇人" マッカーサーの生涯での最大の見せ場であったと語り草になっているのだが、
ミズーリ号で舞台の裏方をつとめた作戦部長、ラルフ・E・ウィルソン元大佐は、
「あれが一つの演技であるとすれば、すばらしい演技であり、それは必要なことであった。
なぜならマッカーサーは連合軍最高司令官で、しかも天皇を通して日本を支配する役割をになっていた。
そこで、天皇以上の威厳を、日本国民に対して示さなければならなかった」
と好意的な見方をしていた。

実際、かなり陸軍をきらっていた多くの海軍の将校たちも、
この時初めて見るマッカーサーの威容に、スッカリ魅せられたものであったらしい。

・・・

(Wikipedia)

・・・


「語りつぐ昭和史5」 朝日新聞社 昭和52年発行

日本の降伏 (ミズーリ号調印式)ミズーリ号から占領へ   加瀬俊一


ポツダム宣言受諾の英文の覚書は私が起草したものです。
そのときに日本が付けた唯一の条件は、天皇制の維持でございました。
天皇の国家統治の大権に変更を及ぼさないという了解のもとにポツダム宣言を受諾する、
これが日本が付けた条件でございます。
それに対して翌日アメリカから、天皇と政府の国家統治の権限は占領軍司令官に「サブジェクト・トゥ」と、
占領軍司令官に従属する、そういう返事がきました 。


マッカーサーが厚木に到着しましたのは8月30日、 彼は愛機のパターン号に乗ってきたわけです。
到着してから地上に降りるまでの彼の動作というものは、今日までも語り草になってます。
飛行機のドアがあく、
悠然と現れる、 
決して下を見ない、
まず空を見てそれから顔をぐるりと回して地平線を見る、
そしてやおら地上を眺めてから飛行機から降りてくる。
そのへんの所作は、団十郎の名演技のようなものでした。


誰に頼んでも みんな腰が重い。
そこでとうとう外務大臣重光葵ということになりまして、副全権は統帥部を代表して梅津大将にお願いした。
結局、陛下が「お前、行け」とおっしやってるんだということで、
梅津さんはやむなく全権を引き受けてくださったわけです。


横浜まで、かれこれ一時間かかりました。
路面が爆弾のあとで真っ直ぐに走れないんですよ。
数台の自動車を連ねてジグザグに走るのです。ついに横浜に到着いたしました。
その沿道の光景は、もう目もあてられないものでした。お若い方にはおわかりにならないでしょう。
目の届く限り焼け野原、わずかに焼け残った蔵らしきものがあちこちに点々と残っている。
まだ煙が上っている。
それに、まだ放置された死体もあるらしいのですね。
異臭芬々としていて、窓をあけられないんです。そういうところを通ったのです。
私はそのとき「国敗れて山河あり」という言葉があるけれども、
これは国敗れて山河もなし、目もあてられない惨状だと思いました。 
 

県庁で打ち合わせをしてから埠頭に参りますと、駆逐艦が四隻並んでまして、ABCDという標識を掲げておりました。
Dという標識のある駆逐艦に乗りました。
やがてミズリー号を指呼の間に望むところに行きますと、海面を圧してアメリカの艦隊が整列しているんです。
観艦式なのです。日本に勝ったおめでたい日に観艦式をやろうということですね。 
これに各国の艦隊が加わっているわけです。
私は連合艦隊も知ってますけど、まあ、ほんとうにこんなにたくさん敵の軍艦はあったのかと思うほどダーッと並んでる、
海を圧して。


やがて駆逐艦が停泊すると、そのままでは巨大な軍艦に接舷できませんから、こんどは快速艇がやってまいりまして、駆逐艦から乗り移るわけです。
駆逐艦は非常に傾斜が急ですから、縄ばしごを伝って快速艇へ乗り移るんです。
われわれはできますが、 重光外務大臣は左脚がないのです。
上海公使のとき、朝鮮人に爆弾を投げられてひざの中ほどから義足です。 
「力自慢のもの四人集まれ」そうすると水兵が駆けてきました。
そして抱きかかえて降りるんですが、重光さん、すぐ私に小さな声で 
「君、写真を写さないように言ってくれないか」。


マッカーサーの名演説
ともかくまいりますと、艦上は人であふれていました。
マストの上、砲塔の上、煙突の上まで、 一寸の余地もないというのはあのことでしょう。
将校、水兵、記者が鈴なりになってました。 
それがみんなわれわれの一挙一動を見ているわけですね。
それは好奇の目であり憎悪の目である。むしろ憎悪の目でしょうね。
私どもは導かれて、両全権が先頭に立ち、あと三人ずつ三列に並びました。
われわれと対面する形で連合軍の将官がズラーッと並んでました。
 赤あり、黄あり、青あり、緑あり、みんな勲章をつけて威風堂々としているわけですよ。
きのうまでの敵国の軍部代表者ですね。 
みんなにらみつけるようにして私どものほうを見てるのです。

その将官団とわれわれの間にテーブルがあって緑のカバーがありました。
その上に、 ああ、これだなと思う降伏文書が二通乗ってました。
そういう時間がしばらく続きました。
大した時間じゃないんでしょう、しかし私どもにはたいへん長い時間のような感じがしました。
すると靴音が聞こえる、長身の将軍が出てくる、マイクの前に立つ、マッカーサーですね。
短い演説でしたけれども、素晴らしい演説でした。


マッカーサー、5年8ヵ月日本にいた間、これがただ一回の演説です。
彼としては一世一代の演説だったでしょうね。

「理想とか思想とか理念とかいうイデオロギーの紛争は、戦場で勝負がついた。
今日はもうすでに争いの対象にはならないはずだ。
われわれここに集まった戦勝国の代表者は、憎悪とか猜疑とか不信とかいう気持ちを持ってきのうまでの敵に対しているのではない。
われわれは全く違う見地から和解を達成し、平和に導かんがためにここに集まっているのであって、
日本に課する占領政策は降伏の条件に従って行われるけれども、それを実施する精神は自由であり正義であり寛容である」

 ジャスティス、トレランスということばが、何度も出てくるんです。
私どもは終生の恥辱を受ける覚悟で行ったわけです。
ところが正義、自由、寛容というような言葉を強調するんですね。
私は「これは違うな」と思いました。
彼自身「マッカーサー回想記』(朝日新聞社)のなかに、
私はあのとき、神様と自分の良心とこの二つだけに導かれてマイクの前に立ったんだといってます。
いい演説でした。

・・・

「昭和戦後史・上」 古川隆久  講談社 2006年発行


ミズーリ号上で降伏文書調印

昭和20年8月30日に、フィリピンから、
米太平洋方面陸軍総司令官で連合国軍総司令官を兼ねるダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。
9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式がおこなわれ、
日本側からは重光葵外相と梅津美治郎参謀総長らが出席した。
これにより、日本は歴史上初めて正式に占領下に入った。
独立国ではなくなったのである。
ただし、日本政府の要請もあり、占領軍は日本政府を利用して統治する間接統治というかたちを選んだ。
外交権は停止され、日の丸の掲揚や「君が代」の演奏も原則として禁止された。

・・・

 

「もういちど読む日本戦後史」 老川慶喜  山川出版社 2016年発行

アメリカの占領方針

日本が降伏すると, アメリカはただちにフィリピンにいた太平洋陸軍司令官マッカーサーを
日本占領のための連合司令官総司令部(GHQ / SCAP)に任命し、ソ連やイギリスもこれを認めた。 
日本を占領したのは連合国とされているが、 実質的にはアメリカの単独占領であった。 
また、同じ敗戦国のドイツのように、占領軍が行政や司法を担当する直接統治ではなく, 
最高司令官が日本政府に命令し、日本政府が実行するという間接統治の方式がとられた。 

1945(昭和20)年8月30日 マッカーサー元帥が神奈川県厚木飛行場に降り立ち、
9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書の調印式がおこなわれた。 
連合国側はマッカーサー1人, 日本側は重光外相と梅津美治郎参謀総長の2人が署名した。
 

降伏の申し入れと同時に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、
天皇の血縁にあたる皇族の東久邇宮稔彦が首相となった。 
はじめての皇族内閣であったが, 
木戸幸一内大臣が枢密院議長の平沼騏一郎と協議をして, 
軍部の抗戦論をおさえるには皇族内閣を樹立するしかないと判断し, 天皇に東久邇宮を推挙したのである。


記者会見で「国体護持, 一億総懺悔」を強調した。 
同内閣は, 天皇の権威と警察権力をもって国民にのぞみ, 
「国体護持」, すなわち天皇制を維持することを最大の目的としていたのである。 
「この際私は軍官民, 国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思ふ。 
全国民総懺悔することが,わが国再建の第一歩であり,わが国内団結の第一歩であると信ずる」と, 
「一億総懺悔」論を展開し, 
全国民に戦争責任をおしつけようとした。

 

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