しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ラッパ手・木口小平の碑(成羽)

2021年01月30日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山県高梁市成羽町成羽 小平園   
訪問日・2020年10月24日  



備中神楽の町、ほかにも高瀬舟や鉱山や陣屋町、桜や花火や美術館の町の高梁市成羽町。







成羽は戦前の小学校の終身の教科書に出る「木口小平」の出身地。
小平はラッパ手の兵士で日清戦争で戦死した。
その小平を顕彰した公園と石碑がある。





勇敢な戦死をしたラッパ手は二人いた。



つくられた英雄--ふたりのラッパ手の死

明治27年(1894)7月29日、宣戦布告の三日前安城の渡しで清国軍と激しい銃撃戦があり数名が戦死した。
近衛師団の一楽手が一つの挿話を耳にした。
ただちに同僚と軍歌をつくりあげた。
弾丸咽喉を貫けど 熱血気管に溢るれど 喇叭は放たず握りしめ 左手に杖つく村田銃
「安城の渡し」または「喇叭の響」と題されたこの軍歌は一世を風靡した。

9月4日、白神の盛大な葬儀が行われた。地元紙「中国民報」は一人息子を失った白髪の両親への義援金募集のキャンペーンを始めた。
ところが一年たった明治28年8月30日、読売新聞は「喇叭手は白神源次郎に非ずして木口小平なり」と報じた。
勇敢なる喇叭手は白神から木口にかわった。
やがて木口は「シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と、小学校の修身の教科書に、国民的英雄として登場したのである。

二人とも貧しい農家の跡取り息子で白神は25才独身。木口は22才、入営する前に新妻と離婚。実家に帰った彼女は、木口の死後再婚して天寿を全うしているが、
木口の伝記には、「小平が戦死の報を聞き憂悶の極、病を得て間もなく小平の名を呼びつつ其の跡を追うた」とある。




小平園にある「壮烈喇叭手木口小平之碑」。




教科書に載る人は死に様も・生き様も、もっともらしくするために脚色が多い。
中にはすべて作り話のような人もいる。


小平の場合は、ラッパ手が二人いることに加えて。

教科書では クチカラ ハナシマセンデシタ 、小平園の説明では 手からラッパを離さず


妻は・・・離婚。実家に帰った彼女は、木口の死後再婚して天寿を全う。
伝記・・・小平が戦死の報を聞き憂悶の極、病を得て間もなく小平の名を呼びつつ其の跡を追うた」

必要以上に話を盛るのがすごい。



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1 コメント

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木口小平 (killy)
2021-01-30 21:02:29
40年以上前、日本ラッパ史の研究中に木口小平の生家を見に行ったことがあります。
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