しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「満州事変」・・・福山市

2020年07月22日 | 昭和元年~10年
「福山市史・下」 福山市史編纂会編 昭和58年発行 より転記


昭和6年9月19日、関東軍が南満州鉄道の一部を爆破したいわゆる柳条溝事件で、
以後15年におよぶ戦争のきっかけとなった。

事件が発生すると、これを支持する支配層・軍部の意向をうけて、
新聞ラジオがその全機能をあげて写真展・映画会・慰問袋・○○金(読み取り不可)・肉弾三勇士
などのキャンペーンを行ったので、福山においても、そうした動きが活発になった。

9月24日朝日新聞社の主催で市内三か所(大黒座・盈進商業・誠之館中学)で開催された満州事変映画会には、
平日の昼間に2.000人以上の観客がつめかけ、夜間も昼に劣らぬ盛況で「銀幕に映る我軍の活躍に拍手の波」がわき起こったといわれる。
新聞やラジオによって中国への敵愾心を燃やしていた市民は、じかに「我軍の活躍」ぶりに接して狂喜したのであろう。
こののち、陸軍省が全面的にバックアップした写真展・展示会・排日資料展や第五師団・四十一連隊・在郷軍人会などが主催した軍事・国防講演会などがひらかれるが、9月28日福山公会堂に5.000人以上を集めたのをはじめとして、以後各地でも満員の聴衆を集めたといわれる。

このようななかで、市民の側からも積極的な動きが出てくる。
「我が満蒙派遣軍の正当なる行動を支持する」という在郷軍人会福山支部の決議を皮切りとして、
9月30日には千田村で500人参加の「対支問題」の強硬な決議を採択。
福山市では11月23日、天守閣広場で市民大会が開催され、当局を支持激励し、東洋永遠の平和を宣言採択した。
11月末になると、「満州事変号外を生徒へ!学童へ!」という目的で、福山師範、誠之館・盈進中学、福山・門田・増川高女と東・西・南・霞小学校に、アサヒ学校ニュース板が作られ、
「係の先生が平易に解説して、児童にわかりやすく書いて効果を挙げ」るようになった。

12月18日第五師団に出動の下令あり、四十一連隊からも若干部隊の出動が命じられた。
福山はわきたった。
12月19日午後6時から市民の提灯行列で門出を祝った。
12月21日午前3時の派遣部隊の福山駅出発にあたっては、沿道・駅頭ともに見送り人が殺到したという。

翌昭和7年1月6日に南小学校で錦州入城映画が公開されたのをはじめとして、つぎつぎと映画会が行われた。
郷土部隊の「活躍」もあり、寒夜にもかかわらずいずれも超満員で、アンコールが出るほど市民は熱狂した。

2月24日「肉弾三勇士」の第一報がもたらされると、たちまち大ブームとなり、各学校で終身の時間を割いて三勇士の話を生徒に聞かせた。
娼妓連は軍服姿で三勇士踊りを披露するなど、「どこもかしこも肉弾三勇士が大もてで、
市も4月17日公会堂で肉弾三勇士の会を開催した。

4月にはいると出征兵士が徐々に帰還し始めた。
遺骨となって帰還もあったが、当時の新聞はこれを「悲しいもの」としていることが注目される。


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