しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

無差別爆撃

2020年10月01日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
無差別爆撃

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行



満州事変開始後

満州事変開始後まもなく、関東軍は満洲で中国軍部隊や列車などに航空部隊による機銃掃射や爆撃を開始した。
1931年10月8日には、15年戦争最初の都市爆撃として錦州爆撃が行われた。
1932年1月に開始された第一次上海事変で大規模化し軍事目標主義に反する爆撃がおこなわれた。


南京爆撃

1937年7月に日中全面戦争を開始した日本は、「敵航空兵力を覆滅す」るための高高度からの爆撃が各地の飛行場を目標として実施された。
1937年8月の南京に対する昼間・低空爆撃で迎撃機や高射砲により、予想外の被害を受けた。
日本軍はすぐに夜間の高高度爆撃に転換したが、これより実態は無差別爆撃となった。
1937年9月、大規模な南京爆撃にあたっては
「爆撃は必ずしも目標を直撃するを要せず、敵の人心を恐慌を惹起(じゃっき)せしむるを主眼とす」
と、明確に意図的な無差別攻撃方針が採用された。
1937年9月28日、国連は日本軍の無防備都市への爆撃に対し「弁明の余地なし」との態度を表明した。



重慶爆撃

日本の対中爆撃に対する国際的非難が高まるなか、
日本の法学者は自国擁護の論陣を張った。
「都市は航空機や高射砲を備えていれば”防守状態”となり攻撃を行うことができる」(立作太郎)

重慶爆撃は都市恐怖爆撃あるいは敵国民の抗戦意識破壊という、新しい航空機戦力運用の思想を開示するものだった。
第一期の重慶爆撃は1938年12月26日から39年10月7日まで30数次にわたって実施され、
39年だけの被害者数は死者4~5.000人以上、負傷者4.000人前後に及んだ。

第二期の重慶爆撃は、1940年5月26日から8月23日まで、攻撃日数は22日に及んだ。
強力な焼夷弾が投下された。
死者4149人、負傷者5411人、損壊家屋6952棟とされる。

日本側では「重慶政府は将に潰滅に陥らんとするに至り」と認識した。
しかし実際には、
中国側の抗戦意識を砕くことはできなかった。
40年9月、周恩来は「勝利は間違いなくわれわれにある」と三時間半の大演説を行った。



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