「続・しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行
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戦没者慰霊施設②忠霊塔・招魂社
忠霊塔
(忠霊塔・笠岡市北木島町諏訪神社。
建立は「皇紀2600年」、揮毫は、「陸軍大将 男爵 本庄繁」
角柱状でなく円形)
忠霊塔は、1939年(昭和14)に設立された大日本忠霊顕彰会が、一市町村一基の忠霊塔を全国に建設する運動を展開するなかで広まった。
同会は「一日戦死」をスローガンに掲げ、国民の寄付金を募り、忠霊塔の建設費に当てた。
忠霊塔の形式は、規模の大小にかかわらず箱型の基壇上に角柱状の塔身を載せ、塔身に「忠霊塔」の文字を表したものである。
また、基壇の内部には納骨施設を持ち、遺骨や戦没者名簿などを安置する。
忠魂碑と墓碑の性格を併せ持った施設の必要性を説く陸軍の意向があった。
慰霊祭は地元の慣習に任せるとし、仏教的な儀礼を排除しなかったため、神社界の強い反発を招いた。
遺骨と霊魂を併せ祀る忠霊塔は、霊魂を遺骨から切り離して祀る護国神社や靖国神社とは異質の霊魂観に支えられており、
神社界の反発には根強いものがあった。
招魂社
(笠岡の招魂社)
招魂社は1869年(明治2)に東京招魂社が創建された。神社である。
1874年に内務省が官費で維持する方針を出したことによって制度的に確立した。
1934年(昭和9)内務省は招魂社を一府県一社とする方針を各府県に示し、それを1939年に制度化した。
1939年さらに、招魂社を護国神社と改称することを命じ、護国神社制度が発足をみた。
大日本忠霊顕彰会が設置され、忠霊塔の建設が本格化するのもこの年のことであり、
日中戦争の膠着状態のなかで国民を戦争協力に掻き立てるべく戦没者慰霊施設の整備が画策されたものと考えられる。
靖国神社は1879年に東京招魂社が改称されたもので、各地の招魂社・護国神社の頂点に立つ存在となった。
忠魂堂
神道的な慰霊施設に対し、仏教の立場から戦没者を供養した施設として忠魂堂の存在が知られる。
忠魂堂は遺骨や遺品を納める施設を持つもので、日清戦争のころ誕生した。