しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「紀元二千六百年」

2021年07月24日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
昭和元年から令和3年までの95年間で、いくらかの興奮で全国民が祝った出来事を三つだけ挙げるなら、
昭和3年の御大典、
昭和15年の紀元二千六百年、
昭和39年の東京オリンピック、(←2020東京オリンピックはまったくの番外)
ではなかろうか。


日本は元号と、西暦の両方を現在も使っているが、
(それだけでも他国の2倍だが)
なにをまた”紀元”とか”皇紀”と呼ばれるものを持ち出して、年号を3種類も共存させたかといえば
「日本は神の国」である、と今から思えば摩訶不思議なものを国民に洗脳さすことだった。

西洋の歴史は、たかだか1940年。
アメリカにいたっては、わずか200年、
わが日本は2600年の歴史がある、「エライ国」である。

この紀元(または皇紀)は、明治・大正は使われず、昭和の初期に突然のように軍国化と歩調を合わすように登場した。


今も村々の神社の石鳥居や注連柱には、「紀元二千六年建立」のものが圧倒的に多い。
同時期に学校につくられた奉安殿は、戦後1~2年以内に破壊され、跡形もない。

母は旗行列、
父は傷痍軍人で、東京の記念行事や花電車を見ている。


(父のアルバムから)






紀元二千六百年

昭和15年11月、紀元二千六百年の奉祝行事に国中が沸いた。
小学生活の最後は、紀元二千六百年の奉祝行事と重なって、
学校では,くる日もくる日も分列行進の練習に明け暮れた。
このころは、何かというと行進で、愛国行進曲を歌いながらの行進をよくさせられた。

私たちは、4人ずつ隊列を組んで、一糸乱れぬ行進をする。
向きを変える時、内側の者は足踏をしたままで、後縁にいる者ほど大またに速度もはやめ、するとちょうど扇のひらく形になる。
両手両足を高く上げての行進は疲れてくる。ひとりでに手足があがらなくなる。先生の叱声が飛ぶ。
レコードが鳴りだすと、私たちはまた、分列行進を繰り返した。


金鵄輝く 日本の

こんなめでたい御代に生まれあわせた幸福はないと、校長は訓辞し、子どもたちは晴れがましい気持ちになった。
式典当日の11月10日、
分列行進で校庭を一周し、校門を出て町の中を行進した。

「紀元二千六百年奉祝行事」は、皇居前広場の式典を中心に、全国各地で、全国民を動員して盛大に行われた。
明治神宮での奉祝国民体育祭や音楽体育大会を始めとして、
昼間は小学校、中等学校生徒の分列行進や旗行列行進、隣組を動員しての旗行列、神輿行列、軍楽隊の大行進、花電車の運転。
夜は提灯行列が道を埋め尽くした。
全国民に赤飯用のもち米の特別配給が行われた。

小学校では、記念式典の他、運動会、学芸会、展覧会、音楽会がひらかれ、
記念植樹、舞の神社奉納。教員は奉祝記念教育大会に参加した。

「紀元二千六百年奉祝記念事業」は全国各地で行われ、
図書館や教育会館、忠魂碑の建立、日本精神講演会、皇道宣揚の印刷物刊行などが行われた。

翌11月11日には、
海軍の特別観艦式、陸軍の記念観兵式が行われた。


国をあげての祝賀式が終わった翌日から、目の前に立ちはだかっていたのは、日常的に、
なにもかもが不足しているという、暗く厳しい現実だった。
しかも、日本はいよいよ神がかってきて、「神国」という言葉がよく使われるようになっていた。
神国の兵隊は「神兵」である。

一年生の修身の教科書には、
「日本よい国 きよい国 世界に一つの神の国
日本よい国 つよい国 世界にかがやくえらい国」と、載るまでになった。

昭和16年3月卒業、4月からは国民学校に変わった。




「太平洋戦争下の学校生活」  岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

皇紀二千六百年


大日本帝国は架空の二千六百年に基づき、この年、全国的祝賀行事を繰り広げた。
前年末に公募した二万八千余の中からの当選歌、「二千六百年」が、年開けとともに各レコード会社から一斉に発売された。

奉祝國民歌「紀元二千六百年」
内閣奉祝會撰定・紀元二千六百年奉祝會・日本放送協會制定
増田好生:作詞 森義八郎:作曲


金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて
いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
あゝ 一億の胸はなる


歡喜あふるるこの土を しつかと我等ふみしめて
はるかに仰ぐ大御言(おほみこと) 紀元は二千六百年


あゝ肇國の雲青し
荒(すさ)ぶ世界に唯一つ ゆるがぬ御代に生立ちし
感謝は清き火と燃えて 紀元は二千六百年
あゝ報國の血は勇む


潮ゆたけき海原に 櫻と富士の影織りて
世紀の文化また新た 紀元は二千六百年
あゝ燦爛(さんらん)のこの國威


正義凛たる旗の下 明朗アジヤうち建てん
力と意氣を示せ今 紀元は二千六百年
あゝ彌榮(いやさか)の日はのぼる


昭和15年は、この歌で明け、この歌で暮れた感があった。
日本放送協会は唯一の電波メカのラジオで事あるごとに放送し、
レコード会社は自社の看板歌手を並べて覇を競った。
その顔ぶれは「愛国行進曲」の顔ぶれとほぼ同じだった。



「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行








昭和15年(1940)は神武天皇が橿原で即位以来2600年に当たるという触れ込みで、
11月10日、皇居前広場から盛大な祝典を催した。
寝殿造りの式場には菊の紋章の幔幕を張り巡らせ、誠に仰々しい装いを演出した。
参列者は遠くドイツのヒットラー総統の代理を始め、イタリア、満州、台湾、朝鮮等の代表者を出席させた。
当時幅を利かせていた国粋主義者達は、世界の一等国「日出ずる国」の国威を大いに示す装いを凝らした。
街には花電車が走り、神輿も出る賑やかさで、国を挙げてのお祝いだった。

日支事変開戦当時の昭和12~13年は占領だ!大勝利だ!と景気の良い報道に明け暮れたが、
14~15年頃になると戦線は膠着状態になり、ABCD包囲ラインの締め付けが厳しく国内は物資の不足が目立ってきた。


★奉祝歌「紀元二千六百年」は、紀元二千六百年奉祝会と日本放送協会とが14年に共同募集した際の当選歌である。
12月15日、日比谷公会堂で発表演奏会が催された。
早速、日本放送協会でも「国民歌謡」に汲みこんで、連日連夜放送を繰り返した。
そしてレコード会社に依り、15年1月に一斉に発売させ、祝典の11月10日には国民は等しく声を揃えて歌えるようにと大々的前宣伝が開始された。
各社エース級のメンバーでレコーディングした。



「戦争が遺した歌」  長田暁二  全音楽譜出版社 2015年発行





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松竹映画『永訣』、と海軍の飲酒年齢

2021年07月23日 | 昭和16年~19年
舟木一夫が主演する松竹映画『永訣』。
主題曲「永訣の詩(わかれのうた)」は 作詞・横井弘 、作曲・古賀政男のまさに名曲、





映画も文芸調で、舞台は萩、相手役の大空真弓と尾崎奈々もしっとりいい感じ。
その『永訣』をユーチューブで見ていたら、
海軍兵学校の舟木が飲み明かすシーンがあった。

舟木が演じた役では、まだ未成年。


以前、予科練生だったおじ(母の弟)の話では、
「入って1年したら週に一度ビールとタバコが支給された」と話していた。
それで、おじは16歳で飲酒とタバコを始めた。
軍の施設内でのことだ。国家公認といえる。



【日本ワーキング・ホリデー協会】

日本での飲酒は「20歳」からですが、フランス・ ドイツ・イギリスなど欧州の国はなんと16歳からの飲酒が認められています!
ちなにみ、オーストラリアは18歳から、カナダは19歳から飲酒することが出来るようです。
アメリカは州ごとにルールが異なるのですが、基本的には21歳から飲酒ができるようになる認識でいいと思います。



日本も「なんと16歳からの飲酒が認められています! 」だったことになる。


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「上海だより」

2021年07月18日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
昭和50年頃、軍歌酒場が夜の街に流行った。
その店は、普通に飲み屋なのだが、
店の飾りに日の丸や軍帽が飾ってあること、店内の歌は全てが戦時時代の歌(軍歌や童謡や歌謡曲)だった。
そういう時代だったのでレコード店に軍歌のコーナーがあり、
そのLPレコードを一枚買ったことがある。
父はほとんど関心がない様子だったが、
「この歌は唄っていた」、
というのが『上海だより』。


それだけの縁だが、父が”唄っていた”ので記念の歌としてページにした。
父が軍歌を歌うとこを見たのは一度もない。
軍歌もそうだが、”軍”がイヤだったのだろう。




「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行

上海だより

♪便り物シリーズ

赤紙一枚で召集され、戦場に赴く将兵は、故郷への想いが強かった。
若い兵隊の場合、一番の心のよりどころは母親だった。
「上海だより」は、その母親への戦場からの便りになっていて、上原敏の歌で昭和13年の春、ポリドールから発売された。

上原敏は昭和19年にニューギニア戦線で戦死した。
彼は支那事変が始まると、皇軍慰問団の一員となって中国大陸に渡り、上海、南京の周辺を回って、戦う兵士たちを積極的に慰問して回った。
「上海だより」は、中国戦線に従軍した一兵士が、母親に宛てた「軍事郵便」の形式だった。


拝啓ご無沙汰しましたが
僕もますます 元気です
上陸以来 今日までの
鉄の兜の 弾の痕
自慢じゃないが 見せたいな
〽 
極寒零下の戦線は
銃に氷の花が咲く
見渡す限り 銀世界
敵の頼みの クリークも
江南の春 未だしです
〽 
隣の村の戦友は
偉い元気な 奴でした
昨日も敵の トーチカを
進み乗っ取り 占領し
もぐら退治と 高笑い
〽 
彼奴がやれば僕もやる
見てろ今度の 激戦に
タンクを一つ 分捕って
ラジオニュースで 聞かすから
待ってて下さい 御母さん






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「麦と兵隊」

2021年07月18日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
徐州戦争に従軍した父は、
「歌と同じ」だったと言っていた。
つまり、毎日毎日、”行けど進めど 麦また麦”の徐州会戦で、
(岡山の歩兵10聯隊は)
徐州には入城せず、武漢へと進攻(侵攻かな)していった。





麦と兵隊
戦記の傑作『麦と兵隊』

火野葦平は芥川賞を陣中授与で、支那事変下の輝ける星だった。
陸軍伍長として第18師団に属し、南京攻略に参加。
このあと、中支派遣軍報道部へ転属、5月徐州会戦に従軍することになった。
支那事変下の傑作『麦と兵隊』は、ここに誕生することになった。
出版されると、たちまち百万部の大ベストセラーになり、映画化されて、
人気歌手の東海林太郎が同名の主題歌を切々と歌って、戦時歌謡屈指のヒットとなった。

・・・
出発、果てしもなく続く麦畑の進軍である。
陽が昇ってくると次第に熱くなってくる。
雨が降れば泥濘と化す道は、天気になると乾いて灰のようになる。
黄色い土煙が濛々と立ちのぼり、
煙の幕の中に進軍して行く部隊が影絵のようになったり、見えなくなったりする。

・・・

軍の検閲が厳しく、かなり美化して描いていた。
当時としては超の付くベストセラーになったのは、戦う「軍」でなく「兵」の姿が描かれているからだった。


・・・

「前進。
又も黄塵の中の行軍が続けられていく。
背嚢が肩に喰い込んでくる。
銃を右に担ったり肩を換へたりするが、背嚢は下すわけには行かない。
胸が緊る。弾ね上げる。一寸楽になる。
また肩に喰い込んでくる。
兵隊はそれでも何でもないような顔をして、進んで行く。
黄塵を被り、土人形のようになり、汗に濡れて、歩いて行く。
この麦畑はまさに恐るべきものである」

・・・


この原作をもとに、藤田まさとが作詞した一行目は、

「ああ生きていた生きていた
生きていました お母さん」という詩句だった。

ところが「生きていた」とはけしからんと、陸軍にクレームをつけられ
「徐州徐州と人馬は進む」に改作された。



麦と兵隊
作詞:藤田まさと
作曲:大村能章
歌唱:東海林太郎
 

徐州徐州と 人馬は進む
徐州居よいか 住みよいか
洒落た文句に 振り返りゃ
お国訛りの おけさ節
ひげがほほえむ 麦畑


戦友を背にして 道なき道を
行けば戦野は 夜の雨
「すまぬすまぬ」を 背中に聞けば
「馬鹿を云うな」と また進む
兵の歩みの 頼もしさ



腕をたたいて 遥かな空を
仰ぐ眸に 雲が飛ぶ
遠く祖国を はなれ来て
しみじみ知った 祖国愛
友よ来て見よ あの雲を



行けど進めど 麦また麦の
波の深さよ 夜の寒さ
声を殺して 黙々と
影を落として 粛々と
兵は徐州へ 前線へ


「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行





(玉井伍長(=火野葦平)と文芸春秋社から芥川賞表彰式のため派遣された小林秀雄)



「従軍歌謡慰問団」  馬場マコト 白水社 2012年発行


東海林太郎と「麦と兵隊」

ラジオが新しい事件を歌謡化するので、遅れてはいけないとレコード会社も必死だった。
東海林太郎はロシアと満州の国境の街、黒河に。
火野葦平は5月4日から22日まで、徐州の戦場を歩いていた。

葦平は歩いた。麦畑の中を歩きつづけた。
この先どこまでつづいているのか想像もつかない。
大麦、燕麦、小麦の海だった。
その様は、単に麦を植えるというか、耕作するというような、なまやさしい感じではなかった。
彼らの前には、ただ農作物を荒らす蝗か、洪水か、旱魃と同じように、ひとつの災難にすぎなのかもしれない。
徐州攻略戦は一週間で終わった。
5月20日午前12時、入城式が行われた。葦平も一員としてその行進に加わった。

火野葦平は徐州従軍から帰国すると雑誌「改造」に「麦と兵隊」を発表した。
120万部の大ベストセラーになった。
国民は誰もがなまなましい戦地の現実を知り、興奮したがっていた。

ポリドール製作部長藤田正人は、小説と音楽の一体化はきっと成功すると直感した。
売れっ子作詞家でもあった藤田は、この作詞はぜひ自分がしたいと思った。

〽徐州徐州と

東海林太郎が歌う「麦と兵隊」は大ヒット作となった。
東海林太郎は「歌う兵士」の座を、ゆるぎないものとした。




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昭和12年7月7日・盧溝橋事件 そして父は戦場へ征った

2021年07月15日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父は農家の4人兄弟の長兄。
兄弟4人は戦前・戦中・戦後を死ぬことなく生きた。写真4人のうち、妹と末弟は健在。





父は入営後、
徐州戦争と武漢会戦に征った。
除隊後、3度目の入営中に終戦。
戦後は農業、95歳で没っした。

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「愛国の花」

2021年07月15日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
日中戦争が勃発後、時を同じように”国民歌謡”が喧伝された。
「愛国の花」は、
女性=大和撫子は、歌詞と同じ考えをもち、他の意見は許さないという臭いが強烈な歌だ。



「街に唄あり」  野尻守利  新潟日報  2001年発行

愛国の花 渡辺はま子
--凛々しく生きた銃後の女性が愛唱し心の支えに--


渡辺はま子といえば、昭和歌謡史を代表する歌手の一人であるが、
時代がちょうど戦時下だったこともあって「愛国行進曲」「空の勇士」など
戦時歌謡も多く歌っている。
その中でも特に「愛国の花」は、戦時歌謡とは思えない優雅な美しいワルツで、
銃後の女性に広く愛唱された名曲である。

昭和13年5月に日本放送協会(NHK)の国民歌謡として、
渡辺はま子の歌で放送された「愛国の花」は、歌詞が戦時調でなかったら、
昭和歌謡史の不朽の名曲となっただろうと惜しまれる。
当時としては数少ない女性向きの格調高い叙情歌で、特に女学生たちの愛唱歌となった。
作曲は戦時歌謡の名作「暁に祈る」の古関裕而で、銃後の日本女性の心の美しさ凛々しさを、
清楚なワルツの調べに乗せて歌いあげている。


愛国の花

真白き富士のけだかさを
こころの強い楯として
御国につくす女等(おみなら)は
輝く御代の山ざくら
地に咲き匂う国の花

老いたる若き諸共に
国難しのぐ冬の梅
かよわい力よくあわせ
銃後に励む凛々しさは
ゆかしく匂う国の花

勇士の後(あと)を雄々しくも
家をば子をば守りゆく
優しい母や また妻は
まごころ燃える 紅椿
うれしく匂う国の花

御稜威(みいつ)のしるし菊の花
ゆたかに香る日の本の
女(おみな)といえど生命がけ
こぞりて咲いて美しく
光りて匂う国の花

まだ戦争も本格的に泥沼化していなかった昭和12年、愛国的な歌謡にも気品がありました。
優美なワルツで「桜」「梅」「椿」「菊」と花になぞらえた女性たちの姿を描き出すのはなかなかに美しく素敵なメロディです。
レコードでは渡辺はま子が女声合唱と共に吹き込んでおり、その澄んだ声は暗い世相を忘れさせるかのようです。




(Wikipedia)

愛国の花

「愛国の花」(あいこくのはな)は、1937年(昭和12年)にラジオの国民歌謡として作られ、
1938年(昭和13年)4月20日、渡辺はま子の歌唱で日本コロムビアからレコード化された歌謡曲である。
銃後を守る婦人の思いを桜、梅、椿などにたとえて歌う。福田正夫作詞、古関裕而作曲。

歌のヒットを受けて、1942年(昭和17年)、木暮実千代、佐野周二主演で松竹により映画化された。


(佐野周二は関口宏のお父さん)

映画『愛国の花』
【あらすじ】
戸倉綾子は父親の文三と信州のある村で暮らしていたが、そこへテストパイロットとして事故死した文三の息子の親友である守山徹夫が訪ねてくる。
綾子は徹夫を慕うが、徹夫にはすでに婚約者がいた。
落胆した綾子は従軍看護婦となって戦地に行く決意をする。



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昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県笠岡市

2021年07月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「笠岡市史 3巻」  笠岡市史編さん室 ぎょうせい 平成8年発行


連帯意識と隣組制度
昭和12年(1937)7月7日、日中戦争の勃発に伴い、政府は国民を急速に戦時体制に動員するため、
挙国一致、尽忠報国、堅忍持久を三目標とする国民精神総動員運動を始めた。

第10師団
日中戦争勃発と同時に第10師団は北支に派遣される。
大規模な動員令により、予備役・後備駅に同時召集令が出された。
村は興奮・緊迫状態になる。
応召兵全部を兵舎に収容しきれず、衛戍地の各所にあふれた。
そして逐次北支へ向けられる。
国の隅々、各家、各人、戦争を直接肌に感じ、ただならぬ雰囲気が漂った。


昭和14年「興亜奉公日」を設定し、「毎月1日を国民挙って戦場の労苦をしのび、自粛自制の気持ちを実際の生活に具現する」一日とした。
岡山県もこれを受け、各市町村、小・中等・青年学校、警察署長宛てに通牒を発し、
一億一心奉公の誠を尽くし、強力日本建設の源泉となる一日になるよう指示した。

市町村は管内の官公庁、神社、寺院、銀行、会社、工場、各種団体に対して、興亜奉公日の趣旨徹底のため、印刷物の配布掲示を要請し、
毎月1日は、各戸国旗を掲げ、神社参拝をして皇軍有志の武運長久を祈り、
前線に慰問袋を送るよう奨励するとともに、
華美なる化粧、服装を廃止し、簡素なる食事などさまざまな規制をした。

岡山の歩兵10聯隊は、津浦線を南下し、徐州戦を始めとして多くの激戦を経て犠牲者を出した。


笠岡市戦没者
満州・上海事変(昭和6.7年)、13人。
日中戦争、197人。徐州会戦・太原・杭州・漢口攻略戦ほか。
太平洋戦争、2.127人。

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昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県倉敷市

2021年07月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「真備町史」 真備町史編纂委員会 山陽印刷 昭和54年発行



日華事変

昭和12年7月7日、盧溝橋爆破事件により日華事変はじまる。
この戦争は、いつはてるともなく、
太平洋戦争に突入した昭和16年を経て、
とうとう20年終戦まで支那大陸で続いた。

この時、岡山歩兵第10聯隊は岡山駅頭で見送られ、塘沽に上陸。


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内山完造

2021年07月14日 | 銅像の人
場所・中国上海市

内山完造と内山書店が、久しぶりに全国に紹介された。





【NHK】

魯迅ゆかりの「内山書店」 中国 天津に復活 日中文化人が交流
2021年7月11日 4時36分

戦前の中国 上海に日本人が開業し、文豪の魯迅など日中の文化人の交流の場となっていた著名な書店が中国の天津に復活し、ゆかりの関係者が出席して式典が行われました。
岡山県出身の内山完造が上海に開業した内山書店は戦前、日中の文化人の交流の場となり、文豪の魯迅が頻繁に通ったことで知られています。

内山書店は、その後、東京にも開店しましたが、上海の店は終戦とともに閉店していました。
ところが、天津のテレビ局のディレクターだった趙奇さん(38)が内山書店に関する番組を制作したことがきっかけとなり、地元政府の協力を得た企業が東京の店から商標権を取得して、中国で戦後初めて天津に復活させました。

10日は開店を祝う式典が行われ、東京で内山書店を経営する内山深さんがビデオメッセージを寄せ「中国に再び開店させることは、数十年来の夢でした。皆さんの支援に感謝します」と述べました。
また、式典に参加した魯迅の孫の周令飛さんは、「上海の店はまだ復活していないが、みんなの努力で必ず戻ると信じている」と話していました。
店長となった趙奇さんは「もし私が内山完造が行ったことの1%でもできれば、両国関係に貢献できると思う。よい店長となるとともに、よき友人となりたい」と話していました。

 


(右側のモザイク女性も井原市出身です)


撮影日・2016年3月12日


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魯迅

2021年07月14日 | 銅像の人
場所・中国上海市




2021年7月10日、全国ニュースで「内山書店」の天津店が開店し、魯迅のお孫さんが挨拶する画像が流れた。



【時事通信】
魯迅ゆかりの書店復活 中国で1945年以来

【天津時事】中国の文豪、魯迅ゆかりの書店「内山書店」が10日、天津市で開業した。
中国での「内山書店」の営業は1945年以来。
開店式に出席した魯迅の孫、周令飛さんは「祖父が生きていればとても喜ぶと思う」と語った。
1917年に上海で開店した内山書店は当時の日中文化人が集う場となり、特に魯迅と創業者の内山完造の交流は有名。
35年に「中国を知る書店」として東京でも開業したが、45年に上海店は閉店した。
天津のテレビ局ディレクターだった趙奇さんが最近、内山書店の番組を制作したことがきっかけとなり、天津での「内山書店」復活につながった。
天津の内山書店は市内のショッピングモールにある。
東京の内山書店と経営や資本の関係はないが、多数の日本関連書籍を扱い、日中の文化交流の場となることを目指している。 





撮影日・2016年3月12日


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