石材と大坂城
秀吉は、天下統一のため天正11年に、海陸交通の便利な大坂の地に居城を築こうと考えて大坂城の築城に着手した。
秀吉は、まず西国30余国の大名に命じて、大きな石を運搬させようとしたので、
日夜3万の人夫が使役されたと伝えられる。
「大坂城誌」には、「普請の石材は御影・加茂・小豆島より殊に数多く取り寄せた」とある。
天守閣や大手門の大石は小豆郡土庄町小瀬より採掘し、運んだものである。
この採掘にあたり加藤清正・片桐且元・黒田孝高らが砕石奉行として来島した。
大筏を組み、これを載せて大坂に運んだ。
これらの石材を採ったあとの残石は、現在でも海岸近くの山中や、海辺に累々と横たわっていて、当時の壮観をしのぶことができる。
当時、採石を運搬するには、大木のロクロをすえ、そのうえに採石をのせ、海岸に引きだしたという。
(岡山市・石山公園)
採石を大坂表へ運搬する仕事には、小豆島・塩飽島などの水夫が従事したことが記録にある。
船に積みあげられぬ巨石は、竹の筏にしばり、樽受けとしたり、あるいは二艘の舟を横木につらねて、その中間から水中につりさげて運んだという話がのこっている。
「香川県の歴史」 市原・山本共著 山川出版社 昭和46年発行
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城の歴史
安土桃山時代から江戸初期にわたる数十年間が城つくりの最盛期で、大小3.000の城がつくられた。
しかし、元和一国一城令が出され、約140に整理された。
江戸時代に戦の場となったのは原城、会津若松城および五稜郭だけである。
明治6年、いわゆる廃城令で約1/3が取り壊された。
残された城の多くは軍用施設として使用されていたため、太平洋戦争のさなかに空襲により焼失した。
石垣の石材
曲輪(郭)造成の際に掘削した岩盤を石材として利用した。姫路城、盛岡城、竹田(岡)城。
遠方からも運ばれてきた。大坂城では小豆島石(花崗岩)が船で運ばれてきたことは有名で、小豆島などには石が残されていて大坂城残石記念公園となっている。
寛永年間に再築された大坂城は、伏見城の廃石や六甲、小豆島、前島(牛窓沖)北木島から船で運ばれた花崗岩である。
近くに花崗岩のない江戸城は大部分伊豆半島に産する安山岩である。
船の場合は遠方からも運ばれたが、陸上での運搬の場合は、大部分が10キロ以内の距離から運ばれた。
岡山城、福山城、岩国城の石垣は花崗岩である。
高松城には庵治石が使われた。
丸亀城は本島石で築いた。
(福山城は笠岡諸島の白石島などから運ばれた)
石積
多層の天守閣を支える基礎の石垣は大きな荷重に耐えなければならない。
そのため石材の質と、積み方が問題になる。
(切込ハギ、布積、の江戸城天守台)
空襲で焼失した名古屋城の復旧の際には、石垣がその荷重に耐えられないので、ケーソンを埋め込んで支持基盤にした。
安土桃山時代までは野面積が主で、慶長年間には打込みハギ、江戸時代に入ってからは切込みハギが多くなった。
しかしこれは一般的な流れで、一つの城でもすべて同じ石積とは限らない。
石垣はまず胴木を並べ、そのうえに根石を置き、その上に石を積み重ねる。
外側は各種の石積となっているが、内側は割栗石で裏込めされ、さらに内側に土砂が詰められ、土となじませている。
「日本の石文化」 島津光夫 新人物往来社 2007年発行
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(金刀比羅宮=旧称・金毘羅大権現)
「香川県の歴史」 市原・山本共著 山川出版社 昭和46年発行
明治元年、新政府は神仏混淆を禁止した。
以後、廃仏毀釈の運動が全国におこるようになった。
仲多度郡琴平の金毘羅大権現は金比羅宮と改められ、
別当寺の金光院松尾寺の、その末寺とともに廃寺となった。
金光院住職の名を改め社務職となり、社地を管理した。
そして祭神を大物主神とし、すべての境内の仏式を廃し、
神社として再出発した。
白峯寺も危うく廃寺となるところであった。
(白峯寺)
神道もさかんになり、教派神道では天理教・金光教・黒住教・大社教などがさかえた。
外国公使の強い抗議があり、明治6年政府は信教の自由を認めた。
子供の頃、サーカスを二度目たことある。
4月の「福山とんど祭り」で二度見た、
木下サーカスと三好サーカスだった。
その頃、芝居の劇団よりは規模が大きな見世物小屋といった感じでみていた。
木下サーカスはオートバイが地球儀の中で爆音を鳴らすので鼓膜が破れそうだった。
三好サーカスは分福茶釜と同じ綱渡りの曲芸をよく覚えている。
その芸は、自分と同じくらいの年齢の少女がしていた。
あの子は学校に行っているのだろうか?
人さらいに遭って、サーカスに連れてこさされたのだろうか?
そのころ、茂平には時刻を知らせる放送塔ができて、その時々の流行歌を流していた。
3ヶ月が半年ほど、マヒナスターズが歌う「番頭はんと丁稚どん」で、大村崑ちゃんの台詞がはいっていた。
~おっ母ぁ、わてはお店をしくじって、サーカスにはいりました~
社会の底辺を感じさせる悲しい歌だった。
子供ごころにサーカスには哀しいイメージがつきまとった。
昭和31年に日本のサーカス団は20以上あったようだ。
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「夢つないで 木下サーカス120年」②
山陽新聞 2022年5月31日
明治から昭和にかけて激動の時代にサーカスを率いた唯介は、さまざまな苦難に遭遇した。
日中戦争が始まった37(昭和12)年、サーカスの看板でもあった4頭の象を手放すことになった。
国内が戦時色に染まっていくなか、大型動物の貨物輸送が難しくなる上、空襲などで逃げ出したらパニックになるとの理由からだった。
日本が太平洋戦争に突入し、戦局が厳しさを増すと、男性団員たちは次々に召集された。
1943(昭和18)年には、興行先の鳥取市で鳥取大地震が起き、当時、興行を仕切っていた弟の幸治をはじめ団員7人が犠牲となる不幸が重なった。
それでもサーカスの灯は絶やさなかった。
女性を中心とした団員たちが劇場を回って舞踊などの芸を披露。
人々にいっときの安らぎを提供した。
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「木下サーカス四代記」 山岡淳一郎 東洋経済新報社 2019年発行
丸テントの「革命」
何が、サーカスの成長を阻んでいるのか光三は考え抜いた。
江戸期よりの「丸太掛け小屋」を脱却し、「洋式の丸テント」に変えようと決断した。
体育館やホールでは大きさがまちまち、団員の空間感覚が狂い、演技がしずらい。
危険度が高まる。
サイズが一定の丸テントがあれば、どれほど便利だろう。
丸太をそろえ、鳶職をそろえて掛け小屋を組む。だから収益の4割は歩方がとる。
場所の選定も、歩方よりも新聞社と組んだ方が世間的なとおりがよい。
光三は太陽工業に丸テントの製作を伝えた。
2.000人も収容する巨大テントの製作は社運を太陽工業の社運を懸けたチャレンジだった。風速40mに耐え、軽くて持ち運べるテントを完成させた。
節目を重んじた初代唯助
岡山の表町、天瀬に幾つもの映画館、旅館、大衆浴場、料理屋などを建てて「千日前」と称される歓楽街に変えた。
済生会岡山病院の建設の為に広い土地も寄付している。
晩年は書に親しんだ。
木下サーカスの礎は唯助によって築かれた。
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岡山県玉野や児島から、四国の屋島の背後に険しい連山が見える。
それが、五剣山。
あの山にいつか登りたいと思っていたが、今回琴平に行く便があったので登ってみた。
五剣山は一つが崩落し、現在は”四剣山”の状態で、四国霊場の「八栗寺」より上は登山禁止になっていた。
八栗寺のお遍路さんは、みな絵になるような服装と持物をバシッと決めてのお参りだったが、
自家用車か観光バスで来て、そこからはケーブルカーで上り・下り。
それが今風の巡礼なんだろうが、本来の修行というよりは、娯楽のように見えた。
弘法大師は僧名を空海といい、774年善通寺市で生まれたと伝えられている。
のち遣唐使に随行して入唐し、長安で研鑽につとめ、806年帰朝し真言宗を伝えた。
八栗寺は、昔、大師がここにきて、焼き栗を八つ植えたところ、それがみな芽を出したので八栗寺の名がついたという。
(八栗寺本堂と五剣山)
ところで四国遍路は、弘法大師がはじめたという伝えがあるが、一般に起源は室町時代のころだろうといわれている。
四国の霊場88ヵ所の札所が選び出され遍路行がさかんいになったのは、1670~80年ともいわれる。
1番から88番まで,順回りでも逆回りでもよく、はじめもおわりもなく、どこからはじめてもよい。
しかし近道をすることは戒められていた。
見ず知らずのお遍路さんを”大師”とあがめ、”お接待”と称して、
みかん・もち・赤飯・豆など、いろいろなものを供養するが、
施すのものも、受けるものも、ともに“南無大師遍照金剛”と唱えて合掌する。
「香川県の歴史」 市原・山本共著 山川出版社 昭和46年発行
(向こうは屋島、その麓は源平合戦古戦場)
撮影日・2022.5.29
日本100名城の、高松城・丸亀城・岡山城・備中松山城・福山城の現在。
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高松城
場所・香川県高松市
訪問日・2022.5.29
変化なし。
香川県と高松市が天守閣復元を計画しているが、まだ文化庁の許可がでていない。
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丸亀城
場所・香川県丸亀市
訪問日・2022.5.28
2018西日本豪雨などが原因で、南西部の石垣が大規模に崩落した。
現在復旧作業中。
石垣工事の修復工事は2025年完了の予定。
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岡山城
場所・岡山県岡山市
訪問日・2022.5.28
「令和の大改修」工事中。
公園の全域が立入禁止。
「令和4年11月リニューアルオープンを予定しています」そうだ。
”大改修”とは、
耐震化、展示の一新、底壁の塗りなおし、を行っている。
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備中松山城
場所・岡山県高梁市
訪問日・2022.5.19
変化なし。
猫城主の「さんじゅーろー」も元気。
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福山城
場所・広島県福山市
訪問日・2022.5.14
築城400年記念の「令和の大普請」工事中。
工事完成は2022年8月予定。
大普請の主たるものは天守閣北側の壁を、昭和20年の焼失の前の外観に戻すもの。
早く言えば、偽物が再建されていたという情けないお話。