しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

北条早雲

2023年03月12日 | 銅像の人

場所・岡山県井原市東江原町 井原鉄道「早雲の里荏原駅」

 

 

戦国時代、屈指の長寿の武将として知られる北条早雲。


後北条氏の初代・北条早雲の生誕地である備中高越城の、
いちばん近い駅でる”早雲の里江原駅”の駅前に、早雲の石像が建っている。

 

 

(像の碑文)

戦国の魁


北条早雲は、永享4(1432)年、高越城主伊勢新九郎盛定の子として生まれ、
新九郎と名乗った。
備中伊勢氏は室町幕府の政所執事を世襲した名族京都伊勢氏の分流である。
新九郎は青年期を荏原荘で過ごし武芸と学問を菩提寺法泉寺の古潤仁泉に学び、
三十三歳で京に上り伊勢貞道の養子となり足利義視に仕え応仁の乱で伊勢に下る。
その後妹の嫁ぎ先、駿河の守護今川家の内紛を収めた功によって駿河興国寺城主となった。
その後堀越御所に足利茶々丸を攻め、またたく間に伊豆一国を平定、
さらに版図を相模に拡げ小田原城、新井城を攻めて関東制覇の礎を築いた。
このように武勇と情勢判断に優れた早雲は領国経営にも卓越した手腕を発揮し領民から名君と慕われ戦国大名の魁となったのである。

 

 

訪問日・2023年3月11日

 

 

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青春歌謡映画は楽しい「わが愛を星に祈りて」

2023年03月11日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

昭和41年松竹「わが愛を星に祈りて」、

映画は福山市船町の映画館で見た。

 

上映開始と同時に、館内はうえーーーーんと泣き声の大合唱にはびっくりした。

あんな経験は、その一度しかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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田植え唄

2023年03月09日 | 民謡

農業をしていた両親は、昭和44年に最後の田植えと稲刈りをした。

それ以降、農家でありながら米を作らなくなった。

 

手植えから、機械化へ相当悩んだ・・・のでなく、いくらか悩んだようだ。

機械化するほどには田んぼを所有していなかった。

米あまり、米の自由化が叫ばれていた。

で稲作を止めた。

その田んぼは、イチゴとイチジク畑に変わった。

 

・・・

 

小学校では「田植え休み」が3日間あった。

休みはうれしいが、そのぶん夏休みが少なかった。

田植えは、子どもにとってはんぶん祭りきぶんだった。

三軒共同で田植えをし、終わったら輪番で「しろみて」をしていた。

 

ヒールにかまれる(平均日に2~3匹)のが嫌いだった。みんな、そうだろうけど。

 

 

・・・

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

田植え唄

美星町

暑や苦しや手拭いほしや

さまの浴衣の袖ほしや

田植え時には子供がほしや

あぜに腰かけ乳のます

 

水踏み唄

倉敷市

伊勢に参る間にゃエンヤーレ

親さま拝め 親にナー越してのエンヤーレ神はない

大工さんと寝りゃ鉋を枕

左官さんと寝りゃ鏝ょ枕

・・・

 

「矢掛町史 民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

小田

田の草取り唄

あつやよえー 手拭いほしや

さまのな ゆかたのきれ ほしやよ

 

わたしゃ十五でよほ ええ田草がよ

初めよ あとになぎのこるかえ

なぎばかりよ

 

・・・

 

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

久米郡南部・御津郡北部の俚謡 石田農夫男

 

田草取りの歌

(土用の盛夏、男女が田草取りに唄った)

汗と泥とで よごれたからだ

亀のかっこで 田草取り

 

田草取る手を

一寸休ませて

腰をのしたり さすったり

・・・・・・・・・・・

 

 

 

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臼挽き唄

2023年03月09日 | 民謡

子供の頃、どこの家にも既に使用されなくなった石臼を、軒下や縁側や土間に保管していた。

小学生の時、母方の祖父母宅で、祖母が「そば粉」を作って、蕎麦を作って食べさせてくれた。

それが自分が見た、最後の臼挽きだった。

 

・・・・


「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

唐臼挽き唄

唐臼挽きは夜なべ仕事で、娘がいる家には村の若衆たちが手伝いにきた。

夜食には団子または大根飯が必ず出た。

各地

臼の軽さよ拍手のよさよ

愛てかわすな明日の夜も

わしとお前は臼ひき女

ひいて回せば子ができる

・・

粉挽き唄

石臼で屑米・麦・そば・豆など粉にしてよく食べた。

とくに団子がよく用いられた。

思い石臼をゴロリ、ゴロリと挽きながら、ゆっくりと歌うのである。

笠岡市

臼よ回え回えきりりとしゃんと

ここは道端ひとが聞く

・・・

米搗き唄

米搗きは、はね杵を踏んで精米をした。

一臼に一斗の米を入れて精米されるまでには約3.000回搗かねばならなかった。

主に、夜なべ仕事である。

米搗き唄・麦搗き唄・搗き臼唄と呼ばれる。

 

笠岡市

麦のおえんのは混ぜようのからよ

搗くにおろか(横着)があるものか

真鍋天神鼻 黒雲かかる

いわしひけとの黒雲が

・・・・

 

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

久米郡南部・御津郡北部の俚謡 石田農夫男

 

俚謡(りよう)は素朴な村人の間に、自然発生した生活の歌であり、

労働の歌でり、愛情の歌として、幕末から大正時代にかけて唄いつがれてきた。

 

籾摺り歌

(唐臼で収穫の籾を摺る時)

臼の軽さよ相手のよさよ

相手変わるな 明日の夜も

今年豊年 穂に穂が咲いて

道の小草に 金がなる

・・・

 

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庭歌

2023年03月09日 | 民謡

母の話 2005・2・5


みしろも今はいらんようになった。

稲や麦や除虫菊や。
干しつきょうた。


何回も干すとこを変ようた。
陽の照るトコと照らんトコと。

うちらでもかみざのくちはじきかげるけえ、ひどいときゃ日にさんべんぐれい向きを変ようた。

・・・


「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

前庭
前庭はカドと呼んでいる。
カドには、籾など五穀を筵にひろげて干す。
筵干しとかカド干しという。
干しあがると、脱穀・調整作業をする。
カドは筵干しの場であり、
作業場・牛繋ぎ場・まき割り場・子供の遊び場である。
また、苗床・温床をつくることもあった。
昭和30年ごろから乾燥機で干すようになり、カドは庭園化して行く。

 

・・・

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

麦打ち唄

(唐竿で叩いて実を落とす作業)

笠岡市

唐竿叩きゃすりゃお手に豆ょ七つヨー

夜は殿さに寝て話すアー

桜三月 あやめは五月

咲いて年とる梅の花

 

・・・

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

綿打ち唄

綿打ち弓の弦に実綿を当て、

槌で打って弦を振動させ、実綿をほぐして繰り綿にする。

 

倉敷市

辛い連島で綿打ちしょまにゃ

去(い)んで豊島(てしま)の石を割ろ

百日綿打ちゃ十三文

酒を一杯飲みゃてっぱらこ。

 

・・・・

 

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青春歌謡映画は楽しい「十七歳のこの胸に」

2023年03月08日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

昭和39年東映「十七歳のこの胸に」。

去年西郷輝彦さんが亡くなってすぐ、追悼の意を込めて作ったが、今でも淋しさを感じている。

 

 

 

 

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吉舎(きさ)までユキワリイチゲを見にいった、その帰り道

2023年03月08日 | 令和元年~

吉舎は遠いけど、一度その花を見たかったので遠征した。
車で1時間40分くらいの距離。
初めてみるユキワリイチゲは、思っていた通りの可憐で、春を感じる清楚な花だった。

(吉舎)

 

 

花の形を実際に目で見て知ったので、笠岡の手前の井原まで帰ってきたとき、
井原でも咲くといわれる場所に寄ってみた。
すると、
吉舎よりも多くのユキワリイチゲが咲いていた。
わざわざ遠くまで行かなくても、近くに、より多くのユキワリイチゲがあった。

(井原)

 

日時・2023年3月7日
場所・広島県吉舎町安田
  ・岡山県井原市芳井

 

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さなだ組みの唄

2023年03月07日 | 民謡

真田組みは、老女と子供の手仕事であったように思う。

家では祖母が真田を組んでいた。
母は一度も真田をしていない。←真田をする暇がなかった。
仲買人が大冝からと、吉浜から来ていた。
管理人が高校生になるころ、真田は無くなったような気がする。


・・・・


父の話・2000・6・17

裸麦の穂をそろようた。 先は先で取り、中は中でとりょうた。
上の細いとこと、真中辺を切る。
麦は硫黄でうむして白うして、乾燥させて、真田にしょうた。
真中は潰して真田、先のエエ部分はごぶしをなようた。

子供の頃は、組んだ真田を夏休みに学校へ持って行きょうた。「一反持っけい」いわりょうた。
学校の真田講堂はそうやって何年か積み立てていた。
時には学校で皆んな寄って組むゆうこともしょうた。

今はだれもしょうらん。
麦を植える人もおらんし、乾燥炉もねぃ。

・・・

(父の話)

よう乾燥しょうたところは(稲刈りがおわった後で、株を)はねうがして、麦を植ようた。

真田麦は裸麦を硫黄で蒸して、摘んで、さらして白ぉして、それで真田を組みょうた。

2003・5・18

・・・

 

(笠岡市立城見小学校の”真田講堂”)

小学生が組んだ真田のお金で講堂が建った。

 

・・・・


「鴨方町史」  鴨方町 昭和60年発行

副業

鴨方地方には、農閑期を利用した副業が多い。
六条院を中心にして全町に広がった麦稈真田、
小坂東を中心とした素麺、
深田を中心とした箒、
日原を中心とした天秤棒、
谷井を中心とした瓦焼き、などがあった。

麦稈真田
麦稈真田は、イギリス・アメリカなど外国へ多く輸出されていた。
市場の動向に左右された。
明治41年から大正元年にかけて、飛躍的に増加した。
この当時、瀬戸内海の島々や県北から「組子」を募集する、大規模な家もみられた。

経木を原料とする経木真田、バンコク帽体へと輸出の中心の座を譲っていった。
それに伴い、
生産も老人の小遣い稼ぎとなり、現在では麦稈真田の生産は、ほとんど行なわれていない。

 

・・・

 

「矢掛町史民俗編」  矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行

麦稈真田
昭和40年代になると、矢掛町内で真田組みをする人はみられなってしまった。
備中南部、ことに小田郡から浅口郡地域一帯は埼玉県春日部地方と並び
日本の麦稈真田に二大産地として有名であった。
明治20年代から農家の副業として婦女子を主体に、子どもに至るまで家内中の仕事となっていた。

麦稈は麦穂をとったあとの茎である。
麦の生産価格より収入価値が大きいので、茎の成長が素直な品種を選んで作付けした。

生産された麦稈真田は仲買人(トンビともいう)が自転車や歩いて農家を回って集め、
また、仲買の人は技術指導にもあたった。
鴨方町や寄島町の問屋・貿易商社へ出していた。

 

・・・・

 

「神島史誌」  広沢澄郎編 神島協議会 昭和60年発行 

 

真田組みは、周囲を海に囲まれた島の人たちにとって、

当時の唯一の現金収入であったようだ。

 

真田組み唄

〇夏は木の下 霜夜は炬燵 離れともない主のそば

〇死ぬりゃ夏死ぬ 子のない人は アブがお経読む 蠅が手をこする

高い森木の蝉が鳴く

〇真田組んでも 養いまする 主さケンとりゃ うちが組む

〇一夜咲いても 花は花 一夜そうても 妻は妻

たとえ草履の鼻緒でも 切れてきもちのよいものか

 

・・・・・

 

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

〇さなだくみの歌
さなだくみすりゃ長者のくらし
夏は木の下 冬やこたつ
〇さんだくんでもみょうと口やくえぬ
主がけんつみゃ うつがくむ
〇さなだくんでも夫婦は食える
ぬしがけんとりゃうちがくむ
〇さなだくむとて馬鹿にしてくれるな
さんだ異国の金をとる

 

・・・


「広島県の民謡」

真田編み歌

今から七、八十年前は手内職に類した仕事がいろいろとあった。
大崎下島の久比では麦藁をさねくり器にかけて柔らかくし、それで麦干真田の帽子を作る仕事が盛んであった。
若い娘の多くがその内職に通っていた。

 

豊田郡豊町


一と二と三と四と五がわかりゃ
おさみ先生に習やせぬ

わしが神戸の楠公さんならば
ペケの真田も売りさばく

 

・・・

 

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三郎島の話

2023年03月06日 | 暮らし

三郎島の峠で、農夫の方がひと休みしていた。
三郎島の話を聞いた。

日時・2023年3月3日 浅口市寄島町三郎

 


・・・・

イノシシはまだおらんけど、タヌキがいる。
タヌキは何でも食べる。
芋もダイコンも食べられてしまう。

イノシシは柵を飛び越えるが、タヌキは柵の下をとおてくる。
(防護柵が別ということと、島の畑にその費用はあわない)

仕事は朝する、
誰ぁれも昼からはしない。
そしたら、それを知っとる外国人が一人でなく集団で来てミカンを盗ってしまう。
見つけた人が言うと、
「オカネナラ ハラウヨ」と言う。
何んも悪いことをしょうると思うておらん。
人がおってもなめとるなあ。

ここらは山じゃあなく、全部畑だった。
しだいに畑をせんようになって
あの桜のまわりも手入れがまわらんようになってきている。

 

通学船(学校船)


ワシが小学生の頃は、干たら歩いて行きょうた。
学校船ようた。
台風の時はよかった、学校が休みで。ハッハッハ(笑)
三郎の人は全員、
小学校から高校生まで、集まって船で行っていた。
行くときは全員じゃが、帰りはそうでもなかった。
干た道はクルマエビがぼっけいおって面白かった。
潮は日がわかっとるので、船と徒歩は決まっていた。

大人はみんな船を持っていたので、
自分の船で(本土に)行っとった。
便乗させてもらったり、用事を頼んだり、頼まれたりもしとった。

夏やこはえかったが、冬のさびい時にゃあ雪が舞うことが(今よりは)多かった。

 

・・・・

 

 

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山唄・柴刈り唄

2023年03月06日 | 民謡

桃太郎さんのお話で有名な、
”おじいさんは山へ柴刈りに・・・”

子どもの頃は、よく山へ行った。
松葉集め・やくべ木集め・柴刈り、その三つの記憶が混在して区別できない。
薪にしたのか肥料にしたのか牛のエサだったのかも、遠い昔となってよくわからない。

 

 

 

・・・

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

山唄・柴刈り唄

 

秋の彼岸になると柴刈りが始まる。

柴は牛の厩に入れられて敷き草にされ、それが厩肥になる。

また

堆肥にされたり、

そのまま切って田に入れて肥料になる。

金肥は魚肥か菜種粕ぐらいでわずかなものであり、

肥料の中心は柴(堆肥・厩肥)と人糞尿・灰であった。

 

反当り200肥は入れた方がよいとされ、五反百姓では少なくとも、

延べ20日間の柴刈りをしなければならない。

柴刈りは朝から晩までの仕事なので弁当持ちで行き、

鎌はすぐに切れなくなるので、その場で腰につり下げた砥石でとぐ。

水は無いので唾が水の代用をする。

芳井町

ヤーレー

鳥も通わぬヨー 山里なればヨー

住めば都じゃヨー のや殿ごヨー

ソリャヨイヨイ

歌え歌えとヨー せきたてられてヨー

歌は出はせぬヨー 汗が出るヨー

 

・・・


「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行


柴刈り歌


〇どうせなるなら 一夜も早く
心がわりのないうちに
〇娘島田にちょうちょがとまる 
とまりそうなものよ 花じゃもの

平川地方では早朝山に柴刈りに出かけ、
朝食の頃帰宅する。
終戦後暫くは続いていた。
旧暦六月朔日から八朔までが柴刈り時期である。
日中でも出向いていた。


・・・


「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

肥料
かつては、柴草も大切な肥料で、
早朝の露のある間に刈り取り、束ねてかついで帰ったり、カゴやネコ車で運んで帰った。
これらの柴草は牛に食べさせたり、
ウシヤに入れてアラゴエに踏ませ、
あるいはオシギリで切って直接田畑に振り込むこともあった。

・・・・

 

「矢掛町史民俗編」  矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行

ヒタキシバ(シバクサともいう)


ヒタキシバは、単にヒタキとかシバという。
辻山や持山、アゼなどで刈った草で、
アラゴエとともにたいせつな肥料となり、
草刈り後のハエゴエ(フリゴエ)などに使った。
辻山の草刈についての細かいきまりは少ない。
一般に、田草上がりから秋の彼岸か稲刈り前ごろまで刈に行く。
トギレオーコで四把から六把ぐらい担いで帰るのが普通である。

 

・・・・

 

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