日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

犬肉祭りを考える

2015年09月30日 08時55分40秒 | 日々雑感
 中国南部、広西チワン族自治区玉林市で、6月夏至の日に犬肉祭が開催されたとのことである。動物愛護団体HSI(HumaneSocietyInternational)によれば、中国南部では毎年、1万匹近い飼い犬や野良犬が闇市場で取引され、食されるそうだ。
 また、HSIは韓国中部の農場から食用犬103匹を引き取り、米国に送ることにしたそうだ。韓国には食用犬農場が1.7万箇所以上あり、毎年推定200万匹以上が飼育され、犬肉を供する食べ物屋がソウル市には14年9月時点で329軒あるそうだ。
 犬肉を食することを支持する人々は、犬肉食には中国や韓国などアジア各地で400年以上の歴史があるという。犬ばかりではなく、鯨やイルカの肉を食する是非は文化の違いと説明され分かった気になるが、要は生活のゆとりの問題と思われる。
 そもそも、何らかの動物の肉は自らが生きるための蛋白源として必要である。生活が豊かになり、蛋白源の選択肢が多くなれば、容姿が美しかったり、何らかの意志の交流が出来る、すなわち知能の高い動物を大切にすることになる。
 食物連鎖と称する考えがある。あらゆる地球上の生き物は、生産者→消費者→分解者→生産者の連鎖の中で生きているとの考えである。例えば、バクテリア→プランクトン→魚→人間→バクテリア と小さな生き物が大型の生物に食べられ最後は死して分解され微生物の栄養源になるとの循環論的な考え方である。人間が犬の肉を食べる習慣もこの食物連鎖の中の一つの要素と考えることが出来る。
 しかし、人間は文明という名の下、いろいろな利器を考え出し、必要以上に殺傷という消費をするようになった。自分が単に生きるためだけではなく、他の目的、例えば娯楽のために殺傷するようになってしまった。
 この反動が動物愛護の運動ではなかろうか。中国や韓国における犬を食する習慣、日本における鯨やイルカを食する習慣は、かっては生きるための蛋白源とする重要な習慣であったのだろう。現時点では、少なくとも日本においては、蛋白源の他の選択肢はいくらでもある。従って、欧米の動物保護団体から野蛮と非難され場合の、伝統文化だとの言い訳も単なる惰性と白々しくなる。
 動物保護団体が人間以外の動物に対する保護の必要性を訴える気持ちは理解でき、前述の韓国の農場から飼育犬を引き取り米国に送ったとの報道でもよくやったと思う。しかし反面、最近の難民騒動を思うとはたと考え込んでしまう。ギリシャの海岸に打ち寄せられた子供の死体を大きな兵士が抱えている写真が、英国キャメロン首相を始めとする世界中の人々の胸を打った。この写真をきっかけにシリア難民を世界中の国が入れを許容し始めた。
 しかし、兵士の抱える死体が老人であった場合の反応はどうであったろうか。そもそも報道の種にもならなかったであろう。かわいい動物は、それが人間であっても動物であっても大切にされる昨今である。これも生活のゆとりがなせる業であろうが、命とは何かを考えさせられる哲学的な難問でもある。(犬賀 大好-168)