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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

津田大介・日比嘉高 「ポスト真実」の時代 祥伝社

2017-07-30 11:35:56 | エッセイ

 副題は、「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか。

 津田大介氏は、ジャーナリスト、メディア・アクティビストということで、テレビ等でもおなじみ、金髪のイケメン、といっていいと思う。

 日比嘉高氏は、名古屋大学の準教授、気鋭の日本文学・文化研究者、ということらしい。

 アメリカのトランプ大統領や、イギリスのEU離脱(ブレグジット)で、注目されるフェイク・ニュース(にせのニュース)とか、ポスト・トゥルース(真実)ということば。

 

 2016年のオックスフォード英語辞書の「今年の言葉」によれば、〈ポスト〉という接頭語は、「もともとある状況や出来事の「後」を指している言葉にすぎなかったものが、「ある概念がもはや重要でなくなったり適切でなくなったりしたような時期に属していろ」というニュアンスで用いられることが増えている」(15ページ)と指摘されているという。つまり、「ポスト真実(post-truth)」とは、「いまや現代は「真実」がもはや重要でも適切でもなくなった時期に属している」という事態を表わしていることになると。

 

 「はじめに」で日比氏は次のように述べる。

 

「キャンペーンの中で大小さまざまな嘘を並べたドナルド・トランプ氏がアメリカ大統領となった。イギリスのEU離脱(ブレグジット、Brexit = Britain+exit の造語)の国民投票でも、虚偽の数字がばらまかれた。日本でも、首相が福島第一原発の事故は完全にコントロールされていると胸を張ったり、防衛大臣が南スーダンの治安が落ち着いていると述べたり、あるはずの行政文書がないと強弁されたりしている。

 このような事実に基づかない主張がまかり通る政治状況は、「ポスト真実の政治post-truth polithics」と呼ばれる。」(3ページ はじめに 日比)

 

 この言葉は、現在の社会、現在の世界、もちろん、日本を含めて、事態を把握するうえで、非常に重要なポイントを衝くものであるらしい。

 

「…この言葉は、特定の政治的党派や政治家について考えるためだけに役立つのではないということである。イギリスのEU離脱派にせよ、アメリカのトランプ大統領にせよ、日本の安倍政権にせよ、「ポスト真実」という言葉でその傾向を分析することによって見えてくることがあるとはいえ、この言葉はこれらの政治的党派・政治家のために用意されたのではない。そうではなく、こうした党派や政治家の政治手法に力を与えている、現代的条件をあぶり出すためにこそ登場した言葉なのである。」(5ページ はじめに 日比)

 

 第5章の対談で、両氏は、次のように語る。

 

「津田 オックスフォード大学出版局はポスト真実を、客観的な事実よりも感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響を与えるような状況を示す形容詞と説明しています。ロジカルに話してもそれはまともに聞かれず感情で否定される。あるいは事実を突き付けても「いや、事実ではなく意見です」と言って逃げたり、政治家が堂々とウソをつくのを支持したり。

 最近の言葉で言えば、「オリンピックのテロ対策のために共謀罪が必要なんです」とか、「オリンピックの開催に合わせて憲法を改正しましょう」とか。「オリンピック万能すぎだろ」みたいな(笑)。

日比 少し前まで、そういう言説は世間から見向きもされなかったでしょう。」(212ページ)

 

 現在の世界は、そして日本は、そういう困った状況にあるわけだが、そこにどう対処していくのか。最後のところを引用しておく。

 

「日比 …一方で津田さんが友人を沖縄に連れて行ったケースのように、パーソナルなつきあいがある。私の仕事場で言うと、韓国や中国、台湾の留学生が来て日本の学生と一緒に学んでいるわけです。歴史も文化も違うけれども、みんな個人として出会っている。

 そうやって個人として向き合えば、お互いに持っている感情をやりとりし合って、共感できないまでも、相手が何に怒っているかというのはわかるようになる。

 そういうパーソナルなチャンネルを、持てるところで持つべきなのです。そういう個人的なつながりの厚みを増すようにしていくことが、長期的には社会的・外交的な安定につながります。

 津田 ポスト真実の壁を乗り越える鍵はメディア業界の人間が持っているんじゃなくて、ネットで情報をシェアしているだけの大多数の人たちが握っているんですよね。だからこそ、マスコミ人は読者や視聴者との間にできてしまった壁を崩さなければならない。

 その壁を乗り越えるには、現場に行って人と人同士がリアルの場でコミュニケーションすることしかないんでしょうね。」(244ページ)

 

 ネット時代の便利さ、時と場所の制約を超えて自由に繋がれる利便性が持つ長所と短所、一方の暗闇のようなもの、深刻な影響を及ぼす暗黒面、それにどう対処していくのか、そういうときには、リアルな個人、制約の多い肉体を持った人間、というところに立ち還っていくほかない、ということになる。ありきたり、ではあるのかもしれないが、これはごくまっとうなことであるには違いない。


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