ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

平川克美 グローバリズムという病 東洋経済新報社

2014-11-10 13:03:14 | エッセイ

 帯に、内田樹が「僕はこの本のすべての頁に同意署名できる。」と記している。私も内田氏に同意できる。

 『株式会社という病』、『経済成長という病』につぐ「病」シリーズの3冊目ということになるとのこと。

 平川の主著と言えば、『小商いのすすめ』、『移行期的混乱』ということになるだろうが、これらにしろ、「病」シリーズにしろ、言っていることは基本的に同じことだと思う。

 この本は、これまで言ってきていることを手際よくまとめた本、ということになる。

 平川克美は、早稲田大学理工学部卒業後、幼馴染の内田樹とともに翻訳会社を設立、村上春樹の小説のモデルになった、と思われても然るべきというような時期とか経過とかあった(どうも直接のモデルということではないらしいが、時代風俗みたいな大きな状況のなかで、実は間接的にはモデルだったのだということが言えないわけではない、のではないか?)あとに、アメリカ西海岸のシリコン・バレーに乗り込んで会社社長になった人物である。

 グローバルな競争の勝ち組である。(序文にある通りいろいろ経過はあるようだが、生き残っていることは確かだ。)

 そういう人物が、「グローバリズム」とは「病」であると宣言する。これは、センセーショナルなことである、とも言いたいところだが、そんな週刊誌の売り文句みたいな派手なことではなくて、ごく当たり前の筋の通ったことを書いているに過ぎない。

 冒頭に書いたとおり、内田樹氏の惹句に、私自身全面的に同意するところである。

 「わたしは、アメリカという国が好きであり、アメリカ人の友人も多い。したがって、本書に書かれた事柄はアメリカに対する失望でもなければ、憎悪でもない。ただ、グローバリズムというイデオロギーがこの国で生まれ、それが歴史の必然であり、グローバル戦略をもたなければ生き残れないなどと信じている人々の多いことに、危惧を覚えるのだ。」(10ページ 序文)

 「住宅ローンだけではなく、クレジットカード債権、自動車ローン、商業用不動産ローンなど、証券化できるものは何でも証券化されて、複雑化していった。こういった証券化商品の主な買い手はヘッジファンドだった。金持ちたちがファンドに金を預けて運用させていた。ハイリスクな商品には、債権専門の保険会社が元金保証の保険を請け負った。こういった一連の金融サプライチェーンに登場するのは、規制緩和でひとつながりになった連中であり、貧乏人やアメリカ国外の金融知識に疎い素人が食いものにされていった。/ハイリスク商品を購入した当事者の帳簿上の資産価値は、バブルのように膨らんでいったが、実際に報酬として大金を手にしたのは、寡占体制の上層にいた連中だけであった。/それはまさに、金融界挙げてのネズミ講詐欺のような集金ゲームであったが、経済評論家や大学教授までが、規制緩和による経済の拡大を称揚していたのである。」(29ページ)

 これは、2008年のリーマン・ショック以前のことだが、以後である現在も、全く同じ状況が繰り返されているに過ぎない。

 「経済評論家」や「大学教授」というのは、アメリカの、であると同時に、日本国内の、マスコミに登場するような人物でもあることは論をまたない。

 念のため言っておけば、平川氏は、経済活動が、国内のみにとどまるべきだと主張しているわけではない。

 グローバル化していくことは歴史の自然な流れであり、それを押しとどめることはできない。しかし、それと、グローバリズムは違う、というのが本書の主張である。

 グローバリズムは、その名の通り、全世界に影響を及ぼし、言ってみればその支配下に置こうとするものだが、日本人独特の捉え方があるという。なにか、グローバリズム・コンプレックスと言ってもいいようなものだろうか。明治以降の西洋コンプレックスというか。

 「だから日本人は、常に何かからのビハインドというかたちでしか、自分たちのアイデンティティを確立するポジションをとることができない。逆の言い方をするならば、日本人が自己を規定するときには、自分たちが何処にビハインドしているのかというかたちをとるのであり、その何処かが無い場合には探し出すという奇妙な行動をとるのである。/それが、『アメリカでは、すでに……』とか『ふつうの国家は……』とか、『イギリスの大学制度は……』とか、『世界標準は……』といった言葉になってあらわれる。/メディアのみならず、大学でも、ときに政府の政策においても、この傾向はあらわれる。グローバルスタンダードなんていうものは本来存在していない。/ただ、ビハインドによる自己定位を常態にしてきた日本の政府も、企業も、自分たちが何にビハインドしているかの明確な指標が欲しいのだ。そして、それがなければつくり出す。こうして、グローバルスタンダード信仰が生まれてきたのだろう。」(59ページ)

 この本では、グローバリズムの根源を探るためにアメリカ合衆国という国の歴史を遡ったり、グローバリズムに対抗しうる拠点を求めて、「国民国家」、ナショナルな国家、柄谷行人ふうにいえば「ネーション=ステート」の起源を調べたりする。

 わたしも、現在は、ここで言っているような国民国家に拠るという意味で、ナショナリストであると言っていい。これは、私の「転向」なのかもしれないが。国民を守る国家を国民として守る。このあたりは、微妙な論理、ということにもなるが。

 最後の方、「生活者の思想」という小見出しのところに、「生活者は、必ずしも経済合理的に行動しない。」とある。

 「たとえば、繁盛している商店街の人々の行動様式を見ていると、かれらひとりひとりは、競争優位の市場を生き抜いて、店を拡張し、同業他社を駆逐するような行動をとろうとはしていないように見える。…(中略)…かれらは、むしろ助け合うことで地域の振興に寄与しようとする場合が多いのだ。つまりは、共存共栄のための地域的棲み分けをしているように見えるのである。」(204ページ)

 いっときの金銭の損得という「経済合理性」によるのでなく、もっと長いスパンでの合理性のもとで生活しているのであると。

 「商店街を律しているのは、それぞれの商店主が、意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ身に付けてきた、強固な生活者としての思想である。/そして、この恐らくは江戸期の職人の思想から接続されてきた生活者の思想は、経済成長路線の中で育まれた日本人の価値観と、その子どもであるグローバル志向、経済成長至上主義の思想に対抗しうる有力な思想的拠点になるだろうと私は思う。」(206ページ)

 平川氏の本からは離れるが、最近の気仙沼の商人、経営者たちの在り様を見るとき、ここで言われているような商店街の商店主たちがまさにいる、「地域の振興のために共存共栄を図る経営者たち」しか、このまちにはいない、そんなふうに私は思っている。いや、私だけではないはずだ。気仙沼に関心を持ち、ウォッチし続けている人々はそう見ているに違いない。具体的な人名は、いくらでも挙げることができる。

 もっとも、あえてこんなことを口に出していうのは、ひょっとすると、私しかいないかもしれないけれども。

 ところで、蛇足を書いておく。

 私は、現在、ナショナリストかもしれないと書いた。これは、現在の日本の在り様を批判する時、戦前の日本を良きものとして参照しようとするという意味でのナショナリストではない。縄文、弥生の昔から、21世紀の現在に至るまでの日本の歴史(いま、日本と呼ばれる区域における人類の長い時間軸の中での生活の経過)を大切にするというなかで、特に江戸時代以前、概ね室町時代の中世以降を基軸として参照するナショナリストと言えばよいか。戦前戦後に大きな断絶があると捉えるのでなく、むしろ、明治維新の以前と以降に大きな断絶を見る立場と言えば良いか。

 「現在の日本の在り様を批判する」と書いたが、これは、必ずしも「悪しきものとして断罪する」という意味での「批判」ではなく、「善きところ」と「改善すべきポイント」を良く良く見極め、切り分けて評価するという意味での「批判」である。


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