現代詩手帖2018.5月号の巻頭対談は、詩人のマーサ・ナカムラさんと翻訳家・金原瑞人の対談。
マーサ・ナカムラさんは、詩集「狸の匣」で、去年の現代詩手帖賞に続き中原中也賞を受賞なさった新進気鋭の詩人。
彼女が詩を書くこととなったきっかけは、大学で詩を学んだことだという。
「詩を書き始めたのは大学三年生からで、それまでは小説家になりたいと思っていました。…ところが早稲田に行くと小説家志望の子が多くて、みんな上手だし、自分はもともと文才ないし、だんだん夢を失っていきました。…それでなんとなくジクジクしていたのですが、大学で蜂飼耳さんの授業を受ける機会があったんです。」(12ページ)
蜂飼耳さんも、たしか、以前に現代詩手帖賞を受賞なさっている高名な詩人である。マーサさんの学んだのは、早稲田大学の文化構想学部のはずで、文学部より芸術の実作の方に重点があるのではなかったかと思う。現役の詩人による詩の実作の授業があったわけである。
しかし、私が大学で学んだころはあまり「授業」という言葉を使わなかった気がする。授業と言うと高校以下のことであり、大学はそういうものとは一線を画したレベルのものなのであると偉ぶっていた、というか。講義とか演習とか、原典購読とか特殊講義とか、種類はあったが、代表して「講義」と呼ぶことが普通だったように思う。いまは、どの大学でも抵抗なく「授業」と呼ぶのだろうか。
閑話休題。
で、上の引用の件りを読んで、ああ、早稲田だ、と思ったということを書きたくなった。
小説家志望の学生がたくさん集まっている、というのもそうだし、早稲田で詩の授業を受けたのが詩人になるきっかけだったというのもそうだ。
もちろん、マーサさんは、詩の授業を受けただけというのでなく、大学図書館で片っ端から現代詩文庫を読み漁ったとのことだし、実際に詩をたくさん書いて現代詩手帖の新人欄に投稿し続けた、ということの結果が、良き成果として実現したということである。
そういうことが、結果として実現するにあたり、早稲田大学で学んだことが、決してマイナスではない、というか、むしろ決定的な条件として機能したというふうにも言ってしまっていい。
やはり「早稲田」なんだよな、と思ってしまう。
学問の世界における東大だとか、文芸の世界では早稲田だとか。
東大でなきゃダメだ、とか、早稲田でなきゃダメだ、とか、そういうことは一切ないのだが、なんというか、スタート時点での優位みたいなものは確実にあると思う。
ただ、それが悪いことだと言っているわけではない。入試に合格して入学しているのだし、それぞれの大学ごとの優位性がないというのであれば、むしろ大学としての存在意義がないというべきだ。
個人的に、東大文Ⅲに落ちて、早稲田の一文に合格しながら入学金を払い込まず、埼玉大学教養学部に入った者として、埼大教養の少人数教育の恩恵には最大限に与ったと広言しつつも、人生の違う可能性について思うところはないわけではない。
(でも、今から違う人生をやり直したいなどとは、ひとつも思っていない。そんなのはまっぴらごめんである。さまざまな選択の前でそれなりの労苦はあったわけである。これはこれでよかった、大江健三郎のように「スベテヨシ!」と語って、この先、それほど長く残されているわけでもない生を全うしたいものだと思う。)
なお、現代詩手帖の今号には、マーサ・ナカムラの中原中也賞受賞第一作として、長編の散文詩「サンタ駆動」も掲載されている。
サンタ駆動とは、サンタクロースとの音韻の近似によるネーミングである。
そしてそのサンタを駆動するということ。
ひとを駆り立て、追いたて、苦しめさえする現代高度資本主義におけるクリスマス商戦(をはじめとするすべての経済活動)の過酷さを下敷きに読むべき作品で、これを読んだから読者は幸福になれるとか、心地好いと感じられるというたぐいの作品ではない。
むしろ、後味の悪さこそ、現代社会を映すこの作品の肝なのであろう、と私は読む。
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