ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

千葉雅也 別のしかたで ツイッター哲学 河出書房新社

2014-11-10 14:55:06 | エッセイ

 千葉雅也、『動きすぎてはいけない』に続いて2冊目。

 この東大出の立命館準教授は、ギャル男、であるらしい。漫画家永井三郎による表紙の絵のキャラは、表紙カバー裏の写真を見るに、本人そのものであるようだ。ファッションの系統としては、ギャル男。セクシュアリティは、男性のホモ・セクシュアル。この本自体に明記されてはいないが、いつかツイッター上で、きちんと自分で書いていた。だから、そうそう、カミング・アウトしている。

 この哲学者が、自らを「キャラ化」しているのは間違いのないところである。「キャラ化」とは何かということは、後書きに自分で書いているので、参照のこと。

 「別のしかたで」といえば、レヴィナス「存在するとは別のしかたで」を踏まえてのタイトルで、これは、あとがきに、本人が明記している。「Otherwise」、「さもなければ」とか、「別に言えば」とか。

 Otherは、別の、とか、別のもの、とか、他人とか。Wiseと言えば、賢いとか、賢人とか、老賢人とかになるが、ここでのwiseが、賢いという意味なのかどうかはわからない。

 だが、「別の賢い方法で」とか、「もっと賢い方法で」とか訳しても、それはそれで意味が通じる場合があるというか、別の方法を探るというのは、そもそも、もっと良い方法を見つけたい、もっと賢い選択を探したいというために、というのがあり得べき企図、もくろみなのではないだろうか。

 この哲学者が、この本をまとめた意図は、これまでよりも、なにかしらもっと賢い考え方を提示しようとした、そういうことに間違いはないはずだ。

 ツイッターの140文字で、書いたそばから発表してしまう、という、これまでの通常の本、通常の論文の書き方とは「別の手法で」書いた文章をまとめて、新しい本にするという「別のしかたで」作った本。

 そこに表現される思想も、自ずから異なったものになるだろう。

 この題名が、レヴィナスの難解な本を踏まえているからと言って、読み始めて難解かというとそうではない。もとが、ツイッターの短い呟きであるから、むしろ、すいすいと読み飛ばすように読み進められる。

 冒頭は、こういうつぶやきである。

 

 「中古のテーブルはいい。新品の天板だと、使い始めの頃は、そこに付く痕跡が「自分の痕跡」だと意識して、気になる。知らない経歴を辿ってきたテーブルはスクランブル交差点みたいな感じがして、そこに向かうと自分は匿名者になる。カフェのテーブルがそう。それでなんだかとても気が楽になる。」(3ページ)

 

 2013年1月30日午前1時22分のつぶやき全文である。

 ここには、ひとりの都会人がいる。

 30年以上前に、渋谷パルコの2階の喫茶店(当時はカフェという呼び方は、いまほど一般的ではなかった。)に座って、公園通りを行きかう群衆を見るともなく見ていた私と、どこか重なってくる。

 千葉雅也は、どこか北関東の出身、私は、東北の出身。もっとも東大は合格しなかったわけだが。

 一箇所だけ、適当なページを開いて引用しておく。

 『ウミウシ』と題して、

 

 「…(略)…僕はイルカにはあまり興味がない。ウミウシの方がいい。」

 「冷ややかな水を感じながら岩陰で海綿を食べるウミウシ。大したコミュニケーションはしない。」

 

 すぐ続けて『歌舞伎町の奥』と名付けて、

 

 「歌舞伎町の奥ですれ違う出勤前のホストたちのご面相が大したことなかったりするのも味わい深いものである。」(161ページ)

 

 新宿の出勤前のホストの面相は、どうであろうが私は全く興味がないが、ほんの少しはコミュニケートする可能性のあるかもしれないウミウシには、多少興味はあるかもしれない。

 ついでに言えば、出勤前のホステス、というか、最近はキャバ嬢と言ったほうが通りがいいのか、そういうひとびとにもそんなには興味がない。


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