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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

アレクサンダー・ローエン うつと身体 〈からだ〉の声を聴け

2018-02-12 22:45:06 | エッセイ

翻訳 中川吉晴 国永史子

 

 ココ・カラの村上朋子さんからお借りした本だが、しばらく借りっぱなしでそのままにしていた。

 恐らく本には読むタイミングというものがある。ようやくそのときが来た、ということなのかもしれない。

 アレクサンダー・ローエンは、アメリカの精神科医。フロイトの弟子のライヒの弟子ということになるようだ。フロイトが無意識をあくまで精神のことと考えたのに対し、ライヒは肉体と精神をひとつのものと捉えた、その捉え方を受け継いだ。

 この本に書かれていることは、ひとつひとつ合点の行くことばかりである。

 

「人が正常で健康に機能している目安となる基本的なラインは、「いい感じ」を持っているということだ。健康な人というのは、自分の行うこと、その対人関係、仕事、娯楽、運動などにおいて、ほとんどの時間を、いい感じですごしている。ときには、楽しみが歓喜に高まり、さらにはエクスタシーへと達することさえある。健康な人でも、ときには、苦痛や悲しみ、悲哀や失望をあじわうことがあるだろう。しかし、抑うつ状態にはならない。」(11ページ)

 

 それに対して、抑うつ状態にある人は、こういう「いい感じ」を持てないということになる。

 

「このちがいを理解するために、人間をバイオリンにたとえてみよう。…(中略)…うまく調弦されていなかったら、そこからでてくるのは、不協和音だろう。弦がゆるんでいたら、音をだすことすらできないだろう。その楽器は「死んで」いて、反応を示すことができない。それが抑うつの人たちが陥っている状態である。抑うつの人は反応することができないのだ。」(11ページ)

 

 それほど深刻ではない場合、必要なことはそれなりにこなして、一見正常に見える場合もあるという。

 

「マーガレットは典型的だった。彼女は若く、二五歳ぐらいで、本人が言うには、とてもいい人と結婚していた。彼女には仕事があり、とても気にいっていて、仕事にたいする不満を口にすることはなかった。実際、彼女の人生には、彼女を不愉快にさせるようなものは、なにもみあたらなかったが、彼女は慢性の抑うつ症に悩まされていると言った。…(中略)…内面には空虚感があり、本当の喜びがなかった。マーガレットは、自分自身に何かを隠していた。その笑みや、流ちょうな話しぶりや、ふるまいは、自分にとって不都合なものなど何もないのだと、世間を偽るための見せかけだった。ひとりになると、見せかけはくずれ、抑うつ状態を味わうのだった。」(12ページ)

 

 彼女は、感情を抑え込んでいた。素直な感情の表現ができないでいた。

 

「セラピーをつづけるなかで、彼女は深い悲しみにふれた。彼女は、悲しみを表現する資格がないと感じている自分に気づいた。悲しみに身をゆだねると、彼女は泣いた。そして泣くといつも、気分がよくなった。自分の感情を表現する権利を拒否されたことに、怒りをつのらせることもあった。脚でベッドをけり、拳で滅多打ちにすることで、気分が晴れて、元気になった。セラピーの本当の仕事とは、彼女が悲しみの原因を見つけるのを手伝い、陽気さを装う見せかけを必要としなくなるように助けることだ。マーガレットが自分の感情にふれ、それをどう表現したらいいかを学んでいくにつれて、抑うつは解消されていった。」(13ページ)

 

 良きセラピストの手助けによって、彼女は、よき感情表現ができるように学んだということになる。

 素直な感情の表出ができないでいるというのは、たまたまある場面でできない、ということとは違う。人生において、常に感情の表現がうまくできないでいるということである。幼いころの親との関係性において、なんらかの問題があって、それがその後長く影響を及ぼし続けるということである。

 

「抑うつ症の人たちは、口唇欲求がみたされていない。口唇欲求とは、抱きかかえられたり、肌をふれあわせたり、乳を吸ったり、注目されたり、認められたり、暖かくしてもらいたいといった欲求である。…(中略)…抑うつの人たちは、母親の愛情を奪われ、安全で無条件な愛情があたえてくれる充足を奪われているのだ。…(中略)…大人になってからもみたされなかった欲求は、さまざまなかたちであらわれる。たとえばひとりになれないこと、引き離されることへの恐怖、過剰なおしゃべり、過剰な行動、他人の注意をひくために自慢したり策を弄すること、冷たさに敏感であること、依存的な態度をとることなどである。」(42ページ)

 

 そういう状態をどう克服して行くのか。ローエンのような優れたセラピストと出会うこと、ということにはなる。

 ま、それはいずれにしろ、その克服というのは、こころの問題だけではない。意識とか精神だけの問題ではない。

 からだ、である。こころとからだ両面の問題なのだ、ということは言うまでもない。

 人間は、こころとからだ、ふたつの側面の複合体である。複合体だというよりは、ひとつのものであって、目で見ることができ手で触れることができる物体であるところを肉体だと呼び、その働きとか機能を精神だと呼び分けているに過ぎない。

 そういう意味では、ローエンの言っていることは、ごく当然のことでしかない。

 いわゆる東洋的な思想も視野に入っている。

 

「日本の思想においては、下腹は人間の生命力の中心とみなされている。それは「肚(はら)」とよばれている。…(中略)…日本人によれば、肚がすわっていると、その人は中心が定まっているということだ。また心もからだもバランスがとれているということだ。バランスがとれている人は、落ちついて、くつろいでいて、それがつづくかぎり、その動きには無理がなく、風格がある。…(中略)…文字どおり、人間は腹に座し、そこをつうじて、骨盤底や性器や脚にふれている。もし中心を胸や頭に引き上げれば、このきわめて大切な接触が失われてしまう。」(48ページ)

 

「古代の神話においては、横隔膜が地球の表面に相当するとみなされていた。表面より上にあるものは、すべて光の世界にあり、したがって意識される。表面から下は、暗黒の世界で、それは無意識をあらわしている。自己の中心を横隔膜よりも上にひきあげることによって、意識は、無意識のなかの深い根から分裂させられる。だから腹や肚に重要な意味があるというのは、肚がすわり、叡智を感じとるときのみ、意識と無意識、自我と身体、自己と世界のあいだの分裂が避けられるからだ。肚は、生のあらゆるレベルにおいて、パーソナリティが統合され、統一されている状態をあらわしている。」(50ページ)

 

「腹を感じて、内臓を感じとれるようになり、また脚を感じて、それを生きて動く根と感じられるようになることを「グラウンディングする」(大地に根づく)という。そのようにグラウンディングできている人は、足もとの大地にしっかりと支えられていると感じ、立ち向かっていく勇気や、大地のうえで思いどおりに動きまわる勇気をもつ。グラウンディングしているということは、現実にふれているということだ。」(51ページ)

 

 と、まあ、引用を並べただけとなってしまったが、こんなところ。

 私は、この考えに、全面的に同意したいと思っている。

 

  訳者中川吉晴によるあとがきにこうある。

 

「これまでローエンが一貫してあきらかにしてきたように、現代人が陥っている深刻な問題は、心とからだの分裂であり、からだの抑圧である。これにたいし、生きたからだをとりもどしていくことによって、自己が回復され、さらには自然や宇宙との深い一体感や、つながりが感じられるようになり、生の全体にたいする信仰が甦ってくる。ローエンによって拓かれたこの道筋には、今後、人間のありかたを考えていくうえで、きわめて大きな示唆がふくまれているように思われる。」(372ページ)

 

 このローエンの考えによるセラピーに興味のある方は、気仙沼であれば、ココ・カラの村上朋子さんを訪ねてください。


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