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水野和夫氏は、1953年生まれ、現在、法政大学教授のようであるが、この本の刊行当時は、日本大学教授であった。早稲田大の政経学部から経済学の修士を出て、証券会社に勤務、エコノミストとなり、その後大学の講師となり、埼玉大学で経済学の博士号を取得、民主党政権の審議官を務め、経済ブレーンとして活躍した、ということになるようだ。
この著者については、2013年発行の大沢真幸氏との対話「資本主義という謎」(NHK出版新書)を読んでいるが、まだ、このブログに、継続して読書の記録を掲載する前だった。
【資本主義が死ぬとき】
書物の冒頭「はじめに」、副題は「資本主義が死ぬとき」である。
「資本主義の死期が近づいているのではないか。…端的に言うならば、もはや地球上のどこにもフロンティアが残されていないからです。」(3ページ)
グローバリゼーションの進展のなかで、中国、インドと開発が進み、その先、地理上のフロンティアは、アフリカ、アマゾンをも浸食しつつある。
さらに、地理的な実物空間におけるのみでなく、現代に創出された「電子・金融空間」におけるフロンティアもほとんど消滅している。各国の証券取引所は、コンピュータ・システムの高速化を推し進め、「「電子・金融空間」のなかでも、時間を切り刻み、一億分の一秒単位で投資しなければ利潤を上げることができない」状況となっている。
ということで、「日本を筆頭にアメリカやユーロ圏でも政策金利はおおむねゼロ、一〇年国債利回りも超低金利となり、いよいよその資本の自己増殖が不可能になってきている」。どこからも利潤を上げる余地がなくなり、資本主義は終わる、というわけだ。
資本主義が終わりかけているのが何故問題か。それは、私たちを苦しめる元凶となっているからに他ならない。現今の資本主義は、私たちの大多数を幸福にしないことが明らかになってきたからだ。
「…もっと重要な点は、中間層が資本主義を支持する理由がなくなってきていることです。自分を貧困層に落としてしまうかもしれない資本主義を維持しようというインセンティブがもはや生じないのです。」(4ページ)
「この「歴史の危機」から目をそらし、対症療法にすぎない政策を打ち続ける国は、この先、大きな痛手を負うはずです。」(4ページ)
【資本主義の延命策でかえって苦しむアメリカ】
第一章「資本主義の延命策でかえって苦しむアメリカ」において、水野氏が、着目するのは、先進各国の国債の利子率の低下である。
「昨今の先進各国の国債利回りに着目すると、際立った利子率の低下が目立ちます。」(14ページ)
「なぜ、利子率の低下がそれほどまでに重大事件なのかと言えば、金利はすなわち、資本利潤率とほぼ同じだと言えるからです。資本を投下し、利潤を得て資本を自己増殖させることが資本主義の基本的な性質なのです…」(16ページ)
投資をしても利潤が得られないということは、資本主義がすでに機能していないというということにほかならない。
地理的フロンティアの消滅の後、アメリカが先導して進めた「電子・金融空間」のフロンティア開発は、一見上手くいったかのように見えたが、もはや頭打ちとなっている。そして、それは、国内における格差拡大を結果したのみであった。
「…アメリカの金融帝国化は、決して中間層を豊かにすることはなく、むしろ格差拡大を推し進めてきました。/…資本配分を市場に任せれば、労働分配率を下げ、資本側のリターンを増やしますから、富む者がより富み、貧しい者がより貧しくなるのは当然です。」(28ページ)
水野氏は、1980年代のレーガン大統領の「レーガノミクス」からクリントン、ブッシュ大統領に引き継がれてきた新自由主義、政府よりも市場のほうが正しい資本配分ができるという市場原理主義の考え方は、すでに破綻しているという。次の時代に大きく転換しつつある。
【長い二一世紀】
歴史を顧みて、現在は、中世から近代への歴史の転換点であった一六世紀に似ているのだという。
「空間革命が起きた一六~一七世紀の資本家たちは、中世末期の中心地であるスペイン、イタリアに投資しても、超低金利のため富を蓄積できない状況に陥ったため、投資先をオランダ、イギリスに変えて繁栄していきました。
…「長い一六世紀」というのは、中世のイデオロギーや価値観、システムが一新された時代でもありました。神が主役の時代から人間が主役の時代になり、政治・経済システムも中世荘園制・封建制社会から近代資本主義・主権国家へと一変しました。」(39ページ)
そして現在である。
「ひるがえって「長い二一世紀」の「空間革命」は、どうでしょうか。/「地理的/物的空間(実物投資空間)に見切りをつけた先進国の資本家たちは、「電子・金融空間」という新たな空間をつくり、利潤最大化という資本の自己増殖を継続しています。しかし、「電子・金融空間」で犠牲になっているのが雇用者です。」(40ページ)
「こうした国境の内側で格差を広げることを厭わない「資本のための資本主義」は、民主主義も同時に破壊することになります。」(42ページ)
資本主義は「長い一六世紀」の後に始まり「長い二一世紀」を経て終わる。私たちは資本主義の終わりの時代を生きている、ということになる。
【日本の未来をつくる脱成長モデル】
現在の日本においてはどういうことになっているのだろうか。
第三章「日本の未来をつくる脱成長モデル」において、氏は次のように語る。
「私から見ればデフレよりも雇用改善のない景気回復のほうが大問題です。雇用の荒廃は、民主的な資本の配分ができなくなったことを意味しますから、民主主義の崩壊を加速させます。…雇用なき経済成長は、結果として日本そのものの地盤沈下を引き起こし、日本を政治的・経済的な焦土と化してしまう危険性すらあるのです。/したがって、アベノミクスのごとく過剰な金融緩和と財政出動、さらに規制緩和によって成長を追い求めることは、危機を加速するだけであり、バブル崩壊と過剰設備によって国民の賃金はさらに削減されてしまうことになります。」(130ページ)
それで、この地点で、私たちはどうすればいいのか。「雇用なき経済成長」を脱却するために何をすればいいのか。
「では、成長を求めない脱近代システムをつくるためにはどうすればいいのでしょうか。/その明確な答えを私は持ち合わせていません。というよりそれは、一人でできるものではなく、中世から近代への転換期に、ホッブス、デカルト、ニュートンのように、現代の知性を総動員する必要があると思います。」(132ページ)
水野氏は、その答えを持ち合わせていない、という。
だからといって水野氏を責める、ということにはならない、と私は思う。
「現代の知性を総動員する」。
ふむ。
それこそが、問題である。
ふむ。
ここでちょっと思いついたことを書いておくと、「雇用なき経済成長」を脱却しなければならないという点では、現在の日本の大方の人々に異論はないはずである。
だから「雇用のある経済成長」を目指すのか、あるいは、経済成長自体が雇用を生み出すことはもはやないのだから「経済成長からの脱却」を目指すのか、というところで路線対立が生まれることになる。
水野氏は、当然、ここまで読んでくれば明らかなとおり、脱成長を主張なさっている。
ただ、脱成長のあとの新しいシステムについて、明確なヴィジョンを描くというところは困難だとは言っていて、それは、もちろん、私にとっても、そして、多くの人々にとってもなおさらに困難なことである。
まさに、それこそが問題である。
しかし、そこに問題がある、という提示だけでも大きな意味があるのだ、と私は思う。
(念のため言っておけば、〈経済成長〉にしがみつく人々は、〈成長からこそ雇用が生まれる〉というその限りでは明確なヴィジョンを提示できているわけであるが、それは、もちろん、砂上の楼閣、典型的な画餅に過ぎないわけである。)
そこで、今ここでなすべきことは、資本主義の暴走にブレーキをかけることである。
「当面、資本主義の「強欲」と「過剰」にブレーキをかけることに専念する必要があります。」(133ページ)
思うに、ブレーキをかけるのは、日本に生きるわれわれであり、われわれの総意としての政治である。経済の、市場の自然な成り行きでどうこうできるものでないことは、すでに明らか過ぎるほどに明らかだというべきである。
「「脱成長」や「ゼロ成長」というと、多くの人は後ろ向きの姿勢と捉えてしまいますが、そうではありません。いまや、成長主義こそが「倒錯」しているのであって、結果として後ろを向くことになるのであり、それを食い止める前向きの指針が「脱成長」なのです。」(135ページ)
【資本主義はいかにして終わるのか】
第五章「資本主義はいかにして終わるのか」においても、また別の事例を挙げながら、同様の議論を深めていくわけだが、惑星科学者の松井孝典が、「もし我々が、これまでと同様の発想で右肩上がりの豊かさを求めて人間圏を営むとすれば、人間圏の存続時間は一〇〇年ほどであろう」(178ページ)と主張していることを紹介し、続けて次のように述べる。
「九・一五のリーマン・ショックは、金融工学によってまやかしの「周辺」をつくり出し、信用力の低い人々の未来を奪いました。リスクの高い新技術によって低価格の資源を生み出そうとした原子力発電も、三・一一で、福島の人々の未来を奪っただけでなく、数万年後の未来にまで放射能という厄災を残してしまいました。」(178ページ)
「資本主義は、未来世代が受け取るべき利益もエネルギーもことごとく食いつぶし、巨大な債務とともに、エネルギー危機や環境破壊という人間の存続を脅かす負債も残そうとしているのです。」(178ページ)
現在の資本主義は、未来を先取りして食いつぶしているのだという。早晩、システムの転換が必要である。
「…近代資本主義・主権国家システムはいずれ別のシステムへと転換せざるをえません。/しかし、…しばらくの間はつきあっていかなければなりません。/資本主義の凶暴性に比べれば、市民社会や国民主権、民主主義といった理念は、軽々と手放すにはもったいないものです。…もちろん民主主義の空洞化は進んでいます。…現在取りうる選択肢は、グローバル資本主義にブレーキをかけることしかありません。…インフレ目標や成長戦略に猛進するのは、薬物中毒のごとく自らの体を蝕んでいくだけです。」(202ページ)
しばらくの間は付き合っていかなくてはならない。しかし、アクセルを踏むのではなく、ブレーキをかけながらでなくてはならない。至極まっとうな意見であると思う。
「ゼロインフレであるということは、今必要でないものは、値上がりがないのだから購入する必要がないということです。消費するかどうかの決定は消費者にあります。ミヒャエル・エンデが言うように豊かさを「必要な物が必要なときに、必要な場所で手に入る」と定義すれば、ゼロ金利・ゼロインフレの社会である日本は、いち早く定常状態を実現することで、この豊かさを手に入れることができるのです。/そのためには…「よりゆっくり、より近くへ、より曖昧に」と転じなければなりません。」(208ページ)
私たちは「より速く、より遠くへ、より合理的に」という近代資本主義を駆動させてきた理念にブレーキをかけて、「よりゆっくり、より近くへ、より曖昧に」へと転じる必要がある。
これは、私たち気仙沼の人間にとって、なじみ深い考え方であることは言うまでもない。スローフード運動の理念そのものである。日本で最初に「スローフード都市宣言」を行い、その後、「チッタ・スロー」=「スロー・シティ」を認証された気仙沼である。
「私たちは今まさに「脱成長という成長」を本気で考えなければならない時期を迎えているのです。」(209ページ)
【脱成長という成長】
この「脱成長という成長」というレトリックは、一見矛盾したもの言いにも見えるが、〈経済的な成長〉、〈お金の、モノの数量的な成長〉を脱し、人類の〈人間的な成長〉、〈精神的な成長〉をこそ目指すことである。人間の人間性を取り戻すことである。
以下は、この書物の紹介からは離れることになろうが、ここに政治が機能すべき場所があるはずである。
政治の介入を止めよと主張する新自由主義も、実は、政府の政策に多くを負っているし、昨今の新自由主義の旗振り役である「政商」の姿を見るに、自らに有利な政策展開をこそ求めているように見える。
いずれにせよ、政府は経済政策を担わなければならないのである。
経済に対する政府の果たすべき役割をきちんと見直し、適切な政策を展開することが必要である。しかしそれは、言うまでもなく、いっとき世界史に登場した「計画経済」ではなく、コントロールされた市場、ブレーキをかけて制御された市場ということになるのだろう。
もう一点つけ加えておくと、一国の、あるいは、グローバルな経済成長と、個別企業の成長ということは、全く別物として考えるべきなのだろうと、私は思う。人間が成長し、やがて死期が訪れるように、個別の企業も生まれ、育ち、終期を迎えるものだと思う。世に必要とされる企業は、需要が増大し成長するのである。そして役割を終えれば、事業としてはたたまれる。もちろん、必要であり続ける企業は存続する。
地域経済も、これは現状終わる企業が多いわけであるから、一方であえて育てる施策がなければ、地域の維持が叶わなくなる危険がある。これも、グローバルな成長とは切り離した問題として考えていく必要があるはずである。
グローバルな成長を脱却するというと、同時に地域経済の維持成長にも反対するのだろう、という〈誤解〉が生じやすいのではないだろうか?
決してそんなことはない、と、〈誤解〉を解かなければならない。そして地域の維持と地球環境の維持とは両立していかなければならない、というのも言うまでもないことである。
人間の自由と自立、地域の維持、地球環境の維持という理念を掲げ、その方程式を解く方法が提示できれば、自ずと多数派の形成はなる、と、私は思うのだが、どうだろうか。
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