霧笛のその次の号に載せたもの。この霧笛同人及川良子(ながこ)さんの「一本の牛乳」という詩は、いい詩だ。彼女の最大の傑作かもしれない。
仙台在住の先輩、斉藤克己氏、英文学を専門にされる放送大学客員教授であるが、「やはり、具眼の士はいるものですね。『一本の牛乳』のことです。〝言い果たせてなにかある〟 という問題なのでしょうか。みなさんの論のひろがりが楽しみです。」
詩集「物語」を送っていただいた阿部ひとみ氏、「削ると確かに詩としてはいい。…だけどいつも削ることをためらう。結構これで失敗している。」
亀地宏氏には議論の発端をいただいたところであるが、「特に最初の四行が印象に残ったのは、詩を最後まで読んだからだと思います。最初の四行を読んだだけで後半を想像することは私にはできません。私ならせいぜい『自分の仕事に一生懸命』くらいでしょう。ですから後半は必要です。」
吉田妙子さん「前半だけだと…『この牛乳屋さんのように、無心に、自分の仕事や生活を愛し、人生を走って行きたい』と思ってしまいます。でも、後半を読むと…たいせつな何かを手渡すという目的を良子さんが重視していたのだと気づかされます。」
前号で取り上げた、良子さんの詩(前半のみ)は、
「 たった一本の牛乳を
握りしめ
牛乳屋さんが
国道を 横切る」
というもの。
詩を書く側の人間からすると、この前半で、「自分の仕事に一生懸命」である美しさのみならず、「たいせつな何かを手渡す」メッセージも既にきちんと語ってしまっているということになる。
牛乳屋さんが牛乳びんを握りしめ、繁忙な往来を渡ろうとすることだけで充分なのである。
牛乳を自分で飲むために、ではなく、配達するために持っていることは自明だし、握りしめていることで、その懸命さがわかる。
あとは、蛇足の説明だったり、余計な抽象論であるに過ぎない。 読み手のイメージの働く場所を残しておくことの味。
しかし、言葉をきちんと伝えたいと希うとき、「意味の重複、繰り返し」は、実は、無駄ではないことがある。散文や、語り言葉。 法や、ビジネスの世界では、誤解の余地のない意味の限定が必要とされる。
しかし、詩の言葉も、法の言葉も、言葉である。全く別のものではない。
この大きなひろがりの中で、その都度、その都度、最適の解を探し求めるのが、文章を書く行為である。この意味で、われわれは、真摯な求道者である。文章を書こうとする限り、常に、誰でも。
書くこと。書き込むこと、そして、削り込むこと。
大工さんのように、切ること、削ること、組み立てること。
牛乳屋さんのように、一本の牛乳を握りしめること。
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