気仙沼の育英会の会報に書いたもの。
昭和五十年三月に気仙沼高校を卒業して、すぐ、気仙沼育英会と日本育英会から奨学金をいただいて、埼玉大学教養学部教養学科に入学した。
第一志望の某国立大学文系は、第二次試験で落ち、合格していた某私立大学の第一文学部は、はじめから腕試しで、入学金を入れておらず、当時、国立大学は、一期校、二期校と分かれており、浪人する意思も金銭的余裕もなかったので、二期校の中で、それなりおもしろそうな学部ということで、そのまま入学した。
第一志望にそのまま入っていれば、中村雄二郎のような哲学者か、大江健三郎のような小説家になっていたはずだが、鼻持ちならないエリート意識野郎になっていたかも知れず、大学入試と、もう一回就職試験の際の経験は、貴重な挫折体験であった。(と、心理学で言う「合理化」をしている。)
ちなみに、入る気のなかった私立大学に入っていれば、サンプラザ中野やデーモン小暮の先輩として芸能人になっているか、弱小出版社か業界紙業界にもぐりこんで、無頼の編集者かフリーライターしながら、三文小説家にでもなっていたかどうか。
どちらにしろ、気仙沼には戻っておらず、たまに、横浜あたりの海を眺めながら、望郷の念に駆られて暮らしていたに違いない。
そして、気仙沼は、演歌ではなくて、ボズ・スキャッグスの「ハーバー・ライト」が似合う港町なのだ、あるいは、加古隆の「海の道」というテーマソングがイメージそのものだ、と、内館牧子に対抗して論陣張っていたはずだ。
埼玉大学教養学部というところは、当時、入学定員が、確か130名程で、教養学科のみだが、13のコースに分かれる。元は、旧制浦和高校の流れを汲む人文学部が改組されたもので、社会学を含む文学部のようなもの。カリキュラムは相当自由に組め、というと聞こえはいいが、それぞれの分野は、層が薄い。
二年生になって、哲学思想コースを選択した。必修は、哲学演習の二コマのみ。あとは、何でもいいといういいかげんなもの。三分の一以内であれば、経済、教育、理工の他学部のものでも良い。
まじめに哲学を学ぶのであれば、東北大学に入った方がよっぽど良かったということになる。
一応、パスカル、サルトルのフランス哲学と、ボードレール、ランボーのフランス文学に、文化人類学を少々というところで、四年間かけて、一般教養を若干学んだというところ。
ただ、小人数教育と言う点では、恵まれていた。ボードレールは、「悪の華」を二年間読んだが、先生一人に学生二人。ランボーは、このところ、昆虫のエッセイというか、ファーブル昆虫記を翻訳している奥本大三郎先生から、せいぜい四~五人で。
今思えば、せっかくの小人数講義、もう少し分野を絞って深く取り組むべきであったろうし、例えば、ランボーであれば、小林秀雄の翻訳を愛読した上で、原典にあたるべきであった。勿体無いことをしたなあという思いはある。
単位数は、一般的な講義で稼いで、原典購読や演習のような手間のかかるものは、特定分野の一~二に限るべきであったかとも思う。
卒論は、サルトルだったが、これは、講義や演習では、哲学史でさらりと触れた程度で原典には全く当たっていない。人文書院の翻訳で「想像力と無」など買って、四年次には、週に二~三日しか学校に出ずに論文を書いていたが、一年間かけて、50枚程度のほとんど引用のみのもので、不勉強ぶりもはなはだしいものであった。
サークル活動は、ロック研究会で、バンドで歌をうたっていた。しかし、これも、中途半端であった。
大学の四年間、一体何をしていたのか、奨学金をいただき、親に仕送りさせ、何の役に立ったのかということになる。全くその通りである。
ただ、自己弁護しておけば、一所懸命、自己探しをしていたというか、人間が生きていくということに役に立つ学問は何かということを、探っていた。
これは、単なる生意気ということにもなるが、就職の役に立つ「実学」ということではない。そんなものは一つもやる気がなかった。全く興味がなかった。
一方で、学会の中だけで通用するような専門的な学識も必要でなかった。
人間としてきちんと生きていくこと、そのために必要なものは何かを、必死に探していた。
その答えが見つかったかといえば、そんなに簡単にこれだと言えるようなものではないし、いろんな意味で足掻いてきた人生だが、四十歳を過ぎて、ようやく見えてきたものはある。
ぼくが、大学で学んだことは、一般的な教養である。これは、専門がないという消極的な意味でそうだったが、実は、積極的な意味でもそうだった。
いまのぼくの、気仙沼で生き、仕事をしている人生に、大きく役立っている。これは、間違いがない。
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