副題は、国家はグローバル化が進んでも消滅しないのか。
著者は、1970年生まれの哲学者。津田塾大学教授。
副題の問いに対する答えとしては、「国家は消滅しない」ということになる。
「多くの人が若いときには多少なりとも理想主義的な考えをもつように、私は、当時国家を批判的にみていた。要は『国家とは無垢の人びとを抑圧するものであり、本質的に悪いものだ』という発想だ。」(まえがき 3ページ)
このあたりは、若いころ、私も同様のことであった。国家などというものは、将来、消滅してしかるべきものだと思っていた。消滅し得ないものだとしても、やむを得ず存続させざるを得ない、必要悪であろうと。なければないに越したことはないもの。
これは、戦前の極端な国家主義に対する反省を踏まえた感覚であったことは間違いない。
「しかし、研究を進めれば進めるほど私のそうした前提はぐらついていった。それどころか、国家について考察すればするほど、暴力を管理する方法として人類はいまだ国家以上のものをあみだしていないし、理論的にいってもあみだすことはできないだろうということに気がついた。」(4ページ)
よくよく考えると、あるいは、長く生きて、さまざまな事態を目にすると、実は国家は、必要なものであった、と分かってくる。
「重要なのは、国家がたとえなくなっても戦争がなくなるわけでもなければ力による支配がなくなるわけでもない、ということだ。逆に国家がなくなればもっとひどい殺戮や支配が確実に起こる。それは歴史が証明していることだ。」(4ページ)
最近のイラクだとか、あるいは、シリアで起きている事態を思い浮かべるとよい。
国家とは何かを考えるうえで、欠かせないのが、17世紀イギリスの哲学者トマス・ホッブスらの「社会契約説」である。ホッブスは、主著「リヴァイアサン」で、人間の自然な状態は「万人の万人に対する闘争」であると規定した。この自然状態という捉え方については、さまざまな議論があるが、萱野氏は、ホッブスの考え方を踏まえて考察を進める。
自然状態、つまり、戦国時代のような闘争続きの状態を抜け出るために、人びとは契約を結び、自然権、暴力を行使する権利を放棄して、闘争を止めた。放棄した。この社会契約によって国家が成立したのだと説明するのが「社会契約説」である。
「自然状態の概念を単なる思考実験の産物だとかイデオロギーだとして切って捨ててしまうことはできない。…(中略)…自然状態の概念を否定することで、人類の歴史では公権力が暴力行使を禁止するのがあたりまえで、私たちは暴力を行使しないのがあたりまえだ、と無根拠に思いこんでしまうことが知的には危ない。」(39ページ)
「むしろ暴力を行使することのほうが人類にとってはノーマルだったのだ。/したがって、一般的とは逆に、なぜ私たちはここまで暴力を行使しなくなったのかと考えることが歴史的にも理論的にも正しい態度なのだ。」(40ページ)
「性善説」だとか、「性悪説」だとか、ものごとを単純化して語れば、ホッブスは「性悪説」でけしからん、などと切り捨てたくもなるところだが、それでは話は済まないわけだ。人が生き延びていくためには、むしろ、暴力を用いて他の人びとを圧倒する必要があった。あるいは、最低限、他からの暴力に、自らの暴力で対峙する必要があった。「暴力を行使することのほうが人類にとってはノーマルだったのだ。」
「社会契約説は人びとが自然状態から脱するために自然権(つまり自己の裁量で暴力を行使する権利)を自発的に放棄したと説明する。しかし自発的に自然権が放棄されるなどということはありえない。自然権の放棄によって共通権力が打ち立てられたのではない。逆に、共通権力を成り立たせる力の集中があったからこそ、自然権が否応なく制限されていったのである。」(45ページ)
日本の戦国時代の終わりかたを思い出してみれば、群雄割拠の時代から、信長、秀吉、家康と国家の統一を進めた、その結果、徳川時代の平和が訪れた、この過程は、人びとが合意して自発的に武装解除したということではない。大河ドラマを見ても、小説を読んでも、日本史の教科書を見ても明らかなことで、強いものが戦に勝ち、圧倒的な軍事力の優位もって、統一を進め、ついに幕府を建てているのである。
このあたりの成り行きは、ヨーロッパの各国においても、同様のことである。
「強者が内側もしくは外側からあらわれてきて無理やり暴力行使の禁止を人びとに迫ることで共通権力が打ち立てられる…それをホッブスは「獲得によるコモン‐ウェルスと呼ぶ。これに対し、人びとが自覚的に信約するモデルは「設立によるコモン‐ウェルス」と呼ばれる。/二つのモデルのうち、歴史的な現実に即しているのはもちろん「獲得によるコモン‐ウェルス」のほうだ。」(45ページ)
(コモン‐ウェルスというのは、多義的な言葉で、直訳すると「普遍的な善」ということになり、まあ共和国とかいうことにもなるが、ここでは、国家、とか、政府、とかの意味と考えておけばよいだろう。国家とは普遍的な善をなすものである。いや、現実にすべて善をなしてきたとは到底言えないが、普遍的な善をなすべきもの、普遍的な善をなすことを期待されたものであることは論を待たない。そう言いたいものである。)
ということで、近代国家は、暴力によって成り立っているのである。暴力の独占によって成り立っているのである。(念のため言っておけば、萱野氏は、「すべて」の暴力の独占ではなく、「合法的」な暴力の独占と語っている。)
「国家」は暴力的な存在なのである。私たちはこのことを忘れてはいけない。
「国家」が、はなから平和で安全なしろものなのではない。さらに、現実に善なることしか行ってこなかったものではない。たくさんの悪しきことも行ってきた、そういう存在である。そういうことを踏まえて、われわれ国民は、ふるまって行かなくてはならない。
そんなようなことが書いてある本である。
もうひとつ、重要な道筋は、グローバルな資本主義のことである。グローバルな資本主義は、国家を超えたもので、国家を無化し、解体するものと誤解されている節があるが、実は、全くそうではない、というようなこと。
この本は、国家とは何か、という問題を考えるための、私にとっての基本的な文献となるものと思われる。(萱野氏の著作で言うと、2005年の「国家とはなにか」(以文社)に遡って読むことも必要かもしれない。)
ここで言う「国家」に対して、「地方自治」ということをどう対置するか、というのが問題となってくる。合法的な暴力を独占する国家と、地方との関係。
いま、今井照氏の「地方自治講義」(ちくま新書)を読んでいるが、この本と、あと、ちょっと前に読んだ、國分功一郎氏の「民主主義を直感するために」(晶文社)、これら3冊を組み合わせると、なにかしら実のある議論が、私にも行えそうである。
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