ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

井出栄策/柏木一惠/加藤忠相/中島康晴 ソーシャルワーカー―「身近」を革命する人たち ちくま新書

2020-01-06 09:38:03 | エッセイ
 革命だという。
 身近を革命する。
 市民革命とか、共産主義革命とかではない。
 これまでの世界史のなかで起こった革命とは、また、少々違う革命。比喩としての言葉の使い方ではある。「改革」と言えば、穏当な表現ではあるだろう。しかし、あえて革命という言葉を使う。
 ベルリンの壁崩壊以降は、革命などという言葉は流行らないはずだが、あえて使うという、そこには、なんらかの固い志があるのだろう。
 そうだな。地方分権改革を、地方分権革命と呼ぼうとする志と相応するようなものが、そこにはある、というふうに言えるかもしれない。
 この書物を読むと、地方分権改革が、中途半端なまま挫折して、「地方創生」などという、経済的に地域を活性化することのみに矮小化されてしまったように見える現在、しかし、その志と困難さとパラレルなものを、ソーシャルワーカーを称する人々が共有している、ように見える。
 だれと共有しているのかと言えば、地方自治を志した市民であり、地方自治体の職員たちとである。
 人間が人間らしく生活できる社会をつくろうとする志。それは、一挙にグローバルに転換しようというのでなく、身近な地域社会において、それぞれの現場において、役割を果たし、人間のつながりを回復しようとする志である。現場において、改良しようとする行動である。
 希望を失ってはいけないのかもしれない。
 日本のどこそこで同時多発的に、社会の転換は進んでいるのかもしれない。その表れは、少しづつ時間を置いて、可視化してくるのかもしれない。
ひょっとするとその先にグローバルに、世界革命が成就して、世の中全ての人が救われる極楽浄土が待っているかもしれない。
 おっと、筆が滑って短絡的なことを書いてしまった。その革命が、グローバルに世界革命を目指し、指導するような前衛党の存在が前提となるようなものであれば、そんなものは要らない。小さな現場現場で、それぞれになすべきことが、それぞれのタイミングで実現していき、その結果として、この世がすべて極楽浄土になるのだとすれば、それはそれでよいのかもしれないが、そんなのは、未来永劫の先の理想像でしかない。というよりも、多様性が尊重され、人間が人間らしく生きられる社会とは言っても、その具体像は均一で均質なものではない。人間らしくという中身は、こういうことだ、と一口で言ってしまえるようなものではない。自由で平等で、と言えば言った気になれるかもしれないが、その内実はひとにより、地域により千差万別である。
 むしろ、小さな問題が絶え間なく発生し、その都度その都度その問題を解決していくことにこそ、人間の喜びはあるのに違いないない。全人類的な最終的な解決などは未来永劫の先であって、私にしても、いま、読んでいるあなたにしても、いま生きているひとりひとりの人間が生存中に実現するなどということは決してないのだが、しかし、「人間が人間らしく生きられる社会の実現を目指す」という理想は掲げ続けなければならない。
 実現しえないものの実現をめざすなど矛盾だ、と言われれば、はいそうですと答えざるを得ない。しかし、生きているとは、そういうものに違いない。常に問題設定をして、その問題の解決をめざす。一定の解決を得て、あるいは、解決しえないことを見届けて、次の問題設定に移る。この問題とは、人類がどうこうという大上段に振りかぶった大問題、というようなことではなくて、日常生活の細やかな問題であっていい。むしろ、そういう細やかな問題こそが、人間の生存と生活にとって決定的な問題に違いない。
 閑話休題。この本の紹介としては、余談が長くなった。
 余談ではあるが、ソーシャルワーカーの働くべき場所は、常にここにある、ということにはなるはずだ。
 著者4名の連名で記される第1章「ソーシャルワーカー―悲惨に立ち向かい、身近な社会を動かす人たち」によれば、この書物の基本コンセプトは次のようなものである。

「困りごとから目を背け、人間を雑にあつかうことに慣れてしまっている社会に対して抵抗の声をあげ、具体的な解決の道しるべを示すこと。これが本書の基本コンセプトである。」(26ページ)

 ここで「抵抗の声をあげ…道しるべをしるす」役割をもつ人々が「ソーシャルワーカー」であるという。
 引用の引用となるが、

「ソーシャルワーカーとは、実践を通じて、社会構造をおびやかす問題に立ち向かい、人と社会の福祉(wellbeing)にマイナスの影響を与える状況を是正する人たちのことをさす(ブレンダ・デュポワ/カーラ・K・マイリー『ソーシャルワーク』明石書店)。」(37ページ)

 著者4人は、こういう意味でのソーシャルワーカーたろうとする志を共有する人々である。

 第2章「ソーシャルワークの原点とは?-課題を乗り越えるために」を担当するのは、中島康晴氏。1973年生まれ、NPO法人の理事長を務め、日本社会福祉士会副会長とのこと。
 ソーシャルワークとは、どういうことか、5つの実践というものがあるという。

「ソーシャルワークとは、社会正義と人権擁護を重要な価値基盤とし、次の5つの実践を通して、すべての人間の尊厳が保障された社会環境を創出する専門性の総体をいう。
①暮らしに困難のある人びとに直接支援を行うこと
②人々が暮らしやすい地域社会保障を構築するよう社会活動(ソーシャルワーク)を行うこと
③人びとのニーズを中心に、人びとと地域社会環境との関係を調整すること
④政策(政府・行政)、さらには人びとを排除する、社会的に優位な価値規範、支配的な思想に対して、人びとのニーズを代弁した社会的活動(ソーシャルアクション)を行うこと
⑤人びとのニーズを中心に、②の地域社会環境と、④の政策(政府・行政)及び、社会的に優位な価値規範との関係を調整すること」(74ページ)

 ソーシャルワーカーの仕事としては、一般的には①~③までは想像しやすいところだ。④、⑤の比較的大きな制度的課題への取り組みは、政治の課題ではあっても、職業としてのソーシャルワ-カーの役割とはイメージしづらいかもしれない。もちろん、主権者たる市民の課題ではある。

「ソーシャルワークの実践領域では、③が重要となる。地域で暮らす多様な人びと相互の接点(対話やかかわり)を創り出すことこそが、地域社会に、お互いさまを共感しあえる互酬性と多様性、人びとの信頼関係を創出し、すべての地域住民が決して排除されることのない地域変革を推進する原動力となる。…(中略)…地域変革が積み重なっていけば社会変革へと連なっていく。」(75ページ)

 この書物では、ソーシャルワークというものに、家庭や地域を超えた、大きな社会のなかでの政治的な実践をも視野に入れていくことに、ひとつの主張がある。そしてそこでの政治とは、一挙に国レベルのものにつながるわけではない。まずは地域、自治体レベルの政治ということになる。

「個人と国家の関係で「社会変革」をとらえてしまうとその実現可能性は遠のいていく。範囲が広すぎるのと同時に、ソーシャルワークの対象となる相手との距離が開きすぎるため、どこから何を変えていいのかさえわからなくなるからだ。…(中略)…眼前にある現実的な問題を捨象しているという点において、イデオロギー闘争に終始してしまう危険性さえある。
 それに対して、個人と地域の関係で「社会変革」をとらえれば、それは手の届くところに近づいてくる。個人と国家の間に地域という領域を入れ、そこを中核とすることで、「社会変革」の実現可能性は格段に高まるはずだ。」(77ページ)

 ここらあたりは、市民と地方政府、中央政府との関係そのものである。地方分権の主張の一部、というよりも、政治とはすべからく福祉の維持向上にある限り、地方分権の主張そのものである。

 第3章「ソーシャルワーカーはなぜひとつになれないのか」は、柏木一惠氏。1953年生まれ、精神科病院のソーシャルワーカーを務め、日本精神保健福祉士協会会長とのこと。
 現在、ソーシャルワーカーの資格としては、社会福祉士と精神保健福祉士のふたつが主なものとして挙げられるという。

「一方は地域共生社会の実現に貢献する役割、他方は精神障害にも対応した地域包括ケアシステムの構築に向けた働きかけ。一見すると微妙な違いがあるように見える。だが、いずれも「地域を基盤とする社会変革」が期待されているという点でちがいはない。」(141ページ)

「ソーシャルワーカー当事者間の複雑な思い、組織形態のちがい、厚労省の担当部署のちがい、養成の問題などは、私たちのめざす社会の前では瑣末なことがらなのである。」(143ページ)

 このあたりも、総合的に市民の生活を守っていこうとする地域自治体が、厚労省に限らず、分断された中央政府の省庁の違い、局、課の違いに翻弄される姿、そこを乗り越えていこうとする姿とぴったりと重なるところである。

 第4章「ソーシャルワーカーはどこに立ち、どこに居場所を作るのか」は、加藤忠相氏。1974年生まれ、グループホーム、デイサービス事業、小規模多機能型居宅介護を営む株式会社あおいけあ代表取締役。東北福祉大学の出身で、慶應義塾大学看護医療学部や大学院健康マネジメント研究科の講師も務められているようである。

「医療や介護の「目的」はなにかと問われたとき、私の仕事である介護であれば、目的は利用者を転倒させないことでも、風邪をひかせないことでもない。医療の目的だって同じだ。「健康にすること」が目的なのではない。
 多死社会を迎えている日本において、医療や介護という道具を使って、目の前の人が、地域社会のなかで質の高い生活(QOL)をおくり、質の高い死にかた(QOD)をするためのサポート、つまり「杖」のような存在、それが私たちだ。あくまでも主役は眼の前にいる当事者の本人のはずである。」(147ページ)

「しかし、不思議なことにこの「杖」が主役を演じている場合が多くみられる。」(148ページ)

「それだけではない。その専門職なる人たちも、非常にせまい範囲での自分の専門性にしがみついてしまい、他者の意見に耳を傾けることなく、適切な支援を選択できていないようなケースを見ることが少なくない。」(148ページ)

 ここもまた、市役所と市民との関係性をそのまま語っていると思わされるところである。
 そして、公認された資格なしには、何ごともできないかのような最近の世の中の風潮。逆から見たとき、資格さえあれば、とりあえずはその内実は深く問われないかのような風潮。

「思い切って言おう。医療予防よりも、介護予防よりも、食事をしっかりと摂ることが一番の予防になると思っている。おそらくは、一番楽しく、一番安上がりで、一番気軽な予防だと思う。だけど、この当たり前のことをやれば、世界でも稀有な事業所となってしまう。なにかおかしな話だ。」(153ページ)

「私たちがめざしているのは、歩けるようにすること、つまり「CURE」ではなく、歩こうという気持ちを支えること、つまり「CARE」することなのだ。
 このちがいはとても大事だ。」(154ページ)

 キュアではなく、ケア。治療よりも支援。専門家にしかできない特殊技術ではなくて、誰でもできる見守り、世話。
 あるとき、井出栄策氏は、加藤氏に、CAREとは気にかけることだと教えてくれたという。

「CAREをする私たちは、専門性をよりどころとして「誰かの面倒をみる」サービス・プロバイダーなのではなく、周りの人たちがうまくいくよう気にかけながら支えていく「糸」をたくさん張り巡らせるような存在にならないといけないのだということかもしれない。」(196ページ)

 ここで「糸」というのは、東京大学先端科学技術研究センター当事者研究分野准教授の熊谷晋一郎氏が「『自立していない状態』とは頼る先が一本のロープしかない状態」で、「『自立している状態』とは、ロープほど太くなくとも何本ものひもや糸で支えられていて、もしもその中の一本が切れてしまったとしても平然と生きていける状況のことをいうのだ、と」語ったことを踏まえている。
 最終章「ソーシャルワーカーが歴史をつくる」を執筆され、この書物の編者の役回りを担われたらしい、井出栄策氏は、1972年生まれ、慶應義塾大学経済学部教授。東京大学経済学部出身の経済学者、財政学者のようである。この本を読む限り、玉野井芳郎、神野直彦氏の系譜に属する方と見受けられる。市場至上主義ではなく、人間の顔をした経済学をめざすと言えばいいか。

「まさにいま、歴史の潮目が変わろうとしている。」(190ページ)

「経済が停滞しても命や暮らしを守れる社会をめざすこと」(199ページ)

「本当の問題は、成長によって富を手にし、その富を使って自分や家族の暮らしを守るという、この当たり前と考えられていた一連の流れが機能しなくなりはじめていることにある。」(199ページ)

「だからこそ僕たちは、幸せに生きる方法を、市場や貨幣という「非人格」的な組織・手段に委ねるのではなく、人間と人間がかかわる「人格」的な関係の中に埋め込んでいく方法を模索した。それは、成長に頼りきった命のありかた、「経済の時代」を「人間の時代」に置きかえようという渾身の提案だった。」(200ページ)

「僕たちの不安の原因は、国全体のナショナルなレベル、地域や家族というローカルなレベルで共有されるはずの人間らしい価値がうまく共有されず、一人ひとりが途方もない孤独に苛まれていることにある。そして、それぞれが日々の苦しみ、将来への不安に悩むなか、他者を連帯の対象ととらえるのではなく、競争、そして蹴落とすための対象とみなしはじめている。
 僕たちが変えたいと考えたのは、この状況そのものだった。」(203ページ)
「…ナショナルな改革と…ローカルな改革、このふたつは車の両輪となることを論じてきた。」(204ページ)

 引用を列挙したが、このところ、ものの本を読んで、また、市役所職員として仕事をしてきて、私が言いたいと思っていることが、そのままここに書かれてあった、という思いだ。
 あとがきを、中島氏は「ソーシャルワーカーは人間の希望になれる――そう信じて本書はしたためられた。」と書き起こしている。
 読み終えて、ソーシャルワーカーこそ、ここに至って、私が果たしたい役回りであった、しかし、何をしているのか、何ができるのか、と、問い詰められたかのように、しばし、茫然ともしている。


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