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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

内田樹 憲法の「空語」を充たすために かもがわ出版

2015-05-06 21:36:40 | エッセイ

 ここでの内田樹は、一種の気迫がある。いつもの、気楽に肩の力を抜いて面白くしかしためになる妥当なことを語る内田樹ではない。確かに力が入っている。しかし、入りすぎているわけではない。実質的に力強いというふうに。

 考えてみると、彼はレヴィナス学者である。ハイデガーの弟子でありながら、ユダヤ人として迫害を受け、しかし、そこで考え考え抜いた思想家をこそ、深く学んだひとである。

 いまここで、このことを語ることは私の使命である、というふうに語っている、と思う。

 さて、「このブックレットは2014年5月3日の憲法記念日に神戸市で行われた兵庫県憲法会議主催の集会で行った講演に加筆したもの」(まえがき 3ページ)とのことである。

 内田は、現在の日本の政治状況について、下記のように語る。

 

 「立法府が機能不全に陥り、行政府が立法府の機能を代行する状態のことを「独裁」といいます。日本はいま民主制から独裁制に移行しつつある。有権者はそれをぼんやり見ている。ぼんやり見ているどころか、それを「好ましいことだ」と思っている人間が国民の半数近くに上っている。」(4ページ)

 

 民主主義が危機にひんしているにもかかわらず、われわれはのほほんと手をこまねいているように見える。

 

 「どうしてこれほど危機感が希薄なのか。それは国民のほとんどが「株式会社のサラリーマン」のものの見方を深く内面化してしまったせいだと私は思っています。」(5ページ)

 

 株式会社特有の「有限責任」の感覚が骨の髄にまでしみ込んでいるのだと。

 「有限責任」については、もう少しさきに若干ふれることにして、自民党の改憲案とはどういうものなのか、内田の議論を見てみる。

 

 「あきらかに国民の自由と権利が制約される憲法」である「自民党改憲案は立憲主義というものも民主制というものも、まったく理解していない人々が勝手にそれぞれのアイディアを持ち込んで、ごった煮的に作り上げたでたらめな文章です。」(20ページ)

 

 でたらめな文章であると酷評する。それだけでなく、

 

 「改憲案と現行憲法を二つ並べて、世界中どこの国でもいい、中学生の社会科のテストに「ここに二つの憲法があります。前の憲法の出来が悪いというので新しく出来の良い憲法を制定しました。さて、廃絶された古い憲法はどちらでしょう?という問題を出したら、世界の中学生たちの99%は自民党改憲案を「古い方の憲法」だと答えるでしょう。クオリティにそれほどの違いがある。それは中学生が読んでも分かる。」(20ページ)

 

 こんな出来の悪い憲法改正案であるにもかかわらず、自民党が改憲を進めようとし、自民党のみならず、世の中に改憲論が喧しいのは、現在の日本国憲法に弱いところがあるからではないかと、内田は述べる。

 

 「日本国憲法には本質的な脆弱性があるからではないのか。/先の戦争にあまりひどい負け方をしたために、戦争が終わったあとに、敗戦責任を引き受けることのできる主体を立ち上げることができなかったという歴史的事実が憲法の本質的脆弱性の起源にあるというのが僕の仮説です。」(36ページ)

 

 「日本国憲法自体は素晴らしい憲法だと思います。人権宣言、独立宣言、ワイマール憲法、ソビエト連邦憲法など、先行する近代憲法の成果を凝縮した憲法学の満点答案のようなものです。でも、問題は、この百点満点の答案を書いたのが受験生自身ではないというところです。」(37ページ)

 

 自民党は、自主憲法の制定を党是として主張していることになっている。日本人が自ら作った憲法ではい、というところを懸命に言い立てている。それは、まさに、そういうことでもある、というのは間違いのないところだ。書かれたその時には一種の空文であった。そこに脆弱性があるということは、内田も認めざるをえない。

 しかし、と、内田は語る。

 われわれ日本人は、なんだかんだ言いながらも、この憲法を守ってきたし、この憲法に守られてきた。

 

  「憲法九条そのものが仮にGHQのニューディーラーたちの作文であったとしても、あるいは日本を軍事的に無力化するというクールでドライなアメリカの戦略であったとしても、これを70年守り続けてきて、空文でないものにしたのは、誰でもない日本国民です。」(40ページ)

 

 「その起源においての主体の欠如を補填するために、「空文であった憲法を私たちが現実化した」と名乗り得る主体を立ち上げること、それしかない。」(42ページ)

 

 われわれ日本国民は、改めて日本国憲法をわれわれの憲法として言挙げしようと。なるほど、そのとおりである。

 このあたりの消息について、われわれはもっと自信を持って良いのだ。

 さて、以下には、「株式会社の有限責任論にどっぷりつかった現在の日本」にたいする批判の文脈を書き写したので、並べておく。

 

 「確かに「想定内」のことしか起こらないのであれば、株式会社みたいに国家を運営するほうが効率的であるかもしれません。国家目標が自民党改憲案にある通り経済成長に一元化しており、それ以外のことは何も考えなくてよいのなら、それでもいいかもしれません、でも、繰り返し言いますけれど、株式会社は有限責任体であり、国民国家は無限責任体です。「想定外」のことが起きたとき、株式会社は手に負えないと判断したら破産すれば済む。破産してしまえば、それ以上は誰も責任を追及できません。でも、国民国家に破産宣言はありません。」(61ページ)

 

 「この「民生の安定」を求める国民の声を、メディアはするりと「国民は経済成長を求めている」という話にすり替えてしまった。」(64ページ)

 

 「でも、国民が望んだのは「民生の安定」であって、それは必ずしも「経済成長」に一元化されるものではありません。」(66ページ)

 

 「だから、日本のシステムは遠からず破局的な事態を迎えることになると僕は予測しています。ただ、それでも日本は他の国とくらべると「負けしろ」の厚さが違います。地震が来ようが、国債が暴落しようが、年金制度が崩壊しようが、「国破れて山河あり」。日本の山河が残っている限り、何とかなります。/日本の「負けしろ」は豊かな自然です。…(中略)…日本列島にはさまざまな植生相があり、多様な動物が繁殖し、澄んだ水があふれるように流れ、強い風が大気を吹き払う。日本のこの自然環境は「プライスレス」です。」(69ページ)

 

 「経済の話をするとき、エコノミストはみんな「フロー」の話しかしません。でも、日本には膨大な「ストック」があります。目の前に当然のようにあるので、みんなそのありがたみがわからない。でも、日本のもっている「見えないストック」を換金しようとしたら、それこそ天文学的な金額を要することになります。/たとえば水です。…(中略)…/そして、銃による犯罪がほとんどないこと。…(中略)…/温泉もあるし、神社仏閣もあるし、伝統芸能もあるし、食文化もあるし、世界一の接客サービスもあるし、映画もマンガも音楽もある。国民資源の「ストック」はほとんど無数にあります。けれども、経済成長論者たちはこのストックをゼロ査定します。そして「日本にはフローがない、金がない」と言い続けています。日本が本当は豊かな国であること、みんなフェアでわかちあえば、ずいぶん愉快に暮らせることを彼らはひた隠しにしている。」(70ページ)

 

 内田は、いまの日本はシンガポール化しようとしていると批判しており、しかし、国土内で飲み水の調達もできない、「ストック」のない国であり、民主主義も機能していない国であるシンガポールの真似をするなどおかしな話でしかないのだ、ということのようである。

 

 ところで、「憲法の空語を充たすために」何をなすべきなのか、「主体を立ち上げる」とはどういうことなのか、この冊子の中では、いま一歩具体的に、明確には触れられてはいない。

 が、そうだな、改めてわれわれの憲法として宣言し直すことが必要なのだろう。

 それは、ひょっとすると、たとえば国民投票をする、ということが必要なことなのかもしれない。改正しないという国民投票とか。(つまりは、改正案を否決するということと、結果としては同じことになるが。)

 実は、ある評論家が、先日ツイッターで、「リベラルな憲法改正をこそ行うべきだ」と主張していた。

 平和主義、国民主権、基本的人権の尊重の3原則を強化する憲法改正をこそ進めるべきという主張。

 これは実は、相当にありの話かもしれないな。

 ただ単に守る、保守するという主張は、どうも弱い。能動的に成り難い。

 今の憲法改正論者のなかには、「不磨の大典ではない、時代に応じて手直しは必要だ」ということを主張しているのであって、「新自由主義の進展、国家の桎梏の解除」とか、「戦前明治期以降の体制こそベスト」と考えているわけではない人々も含まれているに違いないし。

 ちょっと、この冊子の紹介からは、外れてしまったが、そういう考え方も確かにありかもしれないな。

 ところで、この直前に読んだ内山節と内田樹と並べて、かれらは、ほぼ同じことを言っていると思う。ものの見える人からみれば、この国の方向性は、ほぼ正確に見えているのだと思う。

 でも、読後の感覚は少しばかり違う。

 内山は「もの言わぬ一般大衆」を向こう側に遠ざけ、行動する人々に純化して行こうとするようにも見えなくはない。それに対して、内田は、「もの言わぬ大衆」の中にこそ打って出ようとしているように見える。

 それでどうなのか、というところを、私としては、考え続けて行きたいと思っている。


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