ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

生きるということ

2010-04-01 21:21:32 | エッセイ
 今、改めて、生きるということを突き付けられている。
 生きているということは、苦しい、ゴールの見えないマラソンのようなものだろうか?心臓が動悸し、息が続かず、吐き気すらしてくる。
 これから、自分が、何をすればいいのか、何を喜びと感じることができるのか、見えない。
 半世紀を生きて、終わりの秋が近づいている。
 生きがい、何か、創造的なことを、私は成し遂げることができるだろうか?私ができることは、ほぼ、やってしまったのではないか?妻を得て、子もそれなりに育ち(まだ、大人に成りきっていないとしても)、ローカルにミュージカルを成功させ、曲がりなりに詩を書き、歌をうたい、論文を書き、仕事の立場も経験して、これ以上、何を求めるものがあるだろうか。ほどほどに、私のサイズで、私の能力で、できることは終わったのではないか?
 あとは、次の世代に委ねるほかないのではないか?
 サルトルが、嘔吐を感じたのは何歳の時だったか?
 ああ、苦しい、苦しい。この苦しみをあと何年我慢すればいいのか?見えないゴールに向かって走り続けなければならないのか?
 いや、そうではない。
 こう書き始めていることが、すでに、苦しみを抜けだし始めた徴しだ。
 生きることを、何もゴールの見えないマラソンに例える必要もない。祭りに、熱狂するコンサートに、楽しい宴会に、笑いの尽きない会話に例えてもいい。
 そこまでいかなくとも、問題は、繋がることだ。日々の暮らしの中でひととひととがコミュニケートすることだ。なんであれ、ひとの役に立つことだ。さりげなく、会話が成り立つことだ。笑ったり、ほほ笑んだりすることだ。
 個人個人の創造を求め、成果の見える「生きがい」を求め続けてもいけない。「祭り」の日ばかりではない。
 ローカルに、人とつながっていること。(必ずしも、土地に限定したローカルである必要はない。)職場だったり、小さなグループだったり、そこで、会話が成り立つこと。あるいは、何ごとか書くこと。もちろん、時には、大きな祭りがあってもいいが。
 そもそも、なんでひとが生まれてきたのか?そんなのは、謎だ。永遠の謎でしかない。そんな大きな問題にとらわれて悩まされ続けてもしょうがない。日々を無事に生きること。何故か生まれてしまったことに感謝すること。謎は謎のままほっといて、小さな繋がりを幸福とすること。
 そんな中で、たまには、大きな喜びもやってくるに違いない。
 と、まあ、ほんとの解決かどうかは分からないが、なんとかなりそうな気配は感じ始めているところだ。

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