本文はこう書き出される。
「小林稔子(としこ)は10代でモデルにスカウトされて「小林麻美」になり、歌手、女優としても活躍した時代のミューズであった。」(6ページ)
時代の流行りのアイドルの魅力を写真やおしゃべりをちりばめて露出し、その都度消費されてすぐに忘れ去られてしまうたぐいのタレント本というのも山ほどあったものだが、今もまだ、その手の出版物は存続しえているのだろうか?読んでいる最中は、アイドルの魅力に惑わされ、ついつい最後まで目を通してしまうのだが、読み終えた後はどこか虚しく、貴重な時間を無駄にしたような喪失感を味わうのが落ち、ということになる。
小林麻美は、1953年生まれ、私よりも3歳年上。私も間もなく64歳に到達する。このところは、女は50歳からだ、とか、最近では60歳からと言ってもいい、とか適当なことを言っているが、小林麻美は、確かに美しい。現在の私にとっての偶像だとかアイコンだとか言って終わらせれば、それはそれ、暇つぶしの雑誌を眺めたかのように放り投げてしまってもいいのだろう。You Tubeの「雨音はショパンの調べ」の映像を検索して2度ほど観て、魅惑されて、後は忘れてしまう。
でも、なにか違うものが、この書物にはある。ありそうだった。新聞の書評を見たのだったかもしれない。
私が育った昭和の後半の時代と社会の在り様が描かれている、そしてそれは、私の実体験と決して触れ合うことはなかったが、実はごく近いところにあって、しかし、永遠にたどり着けない憧れの世界、パラレルな別世界であった、というような。私にとっての”東京“そのもの、というような。
さて、小林稔子の父は、技術者で、戦争から帰って会社を興し、社長となった。裕福な家庭で育ったと言って間違いない。
「ロマンチストの父だった。背の高さは娘も血を継いだ。…母は「アサヒグラフ」のモデルを頼まれるほどの美人だったが、いい男といい女の家庭が必ずしもうまく回るわけではないのだと、稔子は子ども心に不条理を感じることもあった。
稔子の父には、女性が何人もいた。」(7ページ)
「仕事以外は余韻とか余白とか、人生のそんなところに生きていた。馬に乗って、自由に駆け回るカウボーイになりたかったんだよ、と本気で言ってしまう父。」(16ページ)
娘を、バイクに乗せて大森海岸の湾岸道路を走ったり、スカG(スカイライン2000GT―R)に乗せて開通したばかりの首都高を「フルスロットルでインからアウトコースをついた」りした。映画にしか出てこないようなカッコいい男、しかし同時に、いつも外に女がいる不実な父親。しかし、まあ、こんな男が、当時実在したとは信じ難いところではある。(ここは、安易に羨ましいなどとは言わないでおく。)
そういう父の下で、稔子は育っていく。
「小学生の稔子が時代の実相を理解していた訳ではない。ただ、高度成長の高揚感とアスファルトの新鮮な匂いに囲まれながら、中学、高校と進むにつれ、野間宏や大岡昇平に代表される戦後文学(これらは知識人が教養的たしなみとして愛読した過去の戦争についての深い思索物ではあったが)、ロックやポップアートに象徴されるアメリカ文化、あるいはフランソワーズ・サガンといったヨーロッパの知的文化に傾倒する下地となった。
時代の象徴は芝の東京タワー。」(24ページ)
ただ、都会育ちだというだけではない。戦後文学であり、ロックであり、サガンである。華やかなアメリカ文化のみでなく、奥深いヨーロッパ文化にも傾倒したのだという。さらに、本牧のベースであり、夜遊びである。
「稔子は…遊び場を見つける。
大森からほど近い横浜、本牧のベース(アメリカ海軍横須賀基地横浜分遣隊基地)である。退屈の象徴だったジャンパースカートとベレー帽を脱ぎ捨てて、放課後は横浜に通う日々が始まった。」(26ページ)
きらびやかなパーティー、しかも、そこで、雰囲気に染まるだけではなく、黒づくめの姿で、鋭い感覚を周囲に見せつける。その場に、もうひとつの別の雰囲気をつけ加える。
「パーティーでは女の子はミニドレスにカーディガン、男の子はジャケットが定番だったが…稔子といえば、タートルネックのセーターも、タイツもスカートも黒ずくめ。「俺たち、イギリスのロッカーズみたいだね。」とマオが言った。」(31ページ)
ロッカーズというのは、モッズを並び称されるイギリスの1960年前後の若者たちのファッションというか、流行というか、集団というか、ロッカーズとモッズは対立関係にあったとか、まあ、いずれ、不良のような、暴走族のようなものでもあるが、バンドで言えば、モッズはキンクス、ザ・フ―、ロッカーズは、シャドウズとか、クリフ・リチャード(ソロだけど)とか、ビートルズは、最初、ロッカーズ風のファッションだったが、デビュー後、モッズ系に変えたとかいうような話であるが、欧米の文化にダイレクトに反応していたというわけである。(マオというのは、ドイツ人とのハーフで、中学生時代のボーイフレンドだという。)
あのジャニス・ジョップリンにも傾倒したということで、まあ、ふつうの女の子ではない。隠微な退廃へのあこがれ、みたいなものはあるのかもしれない。普通以上に可愛いというだけでなく、退廃の気配まで漂わせていたとなると、これはもうなんと言っていいかわからない。(ジャニス自体は、隠微な退廃というより、極端にパワフルな自己破滅というべきだろうが、ジャニスに憧れるというと、一拍置いて隠微な退廃めいてくる。)
高校生のころ、芸能界にデビューすることになるが、普連土学園から、自由な校風で知られる文化学院に転校する。当時の文化学院というのは、言ってみれば日本のとんがった感性の若者の集まりであったと言えるだろう。で、相変わらず、赤坂あたりで夜遊び。
「赤坂・ムゲンは稔子が文化学院に入学した68年にオープンしたディスコティックで、川端康成。丹下健三、小澤征爾、三宅一生、横尾忠則ら当時の若い表現者が夜な夜な集う場所になった。」(48ページ)
そして、原宿。
「表参道を右折すると同潤会アパート、表参道を渡ればキディランド、セントラルアパートの1階には喫茶店「レオン」。原宿にはゴーカート乗り場があった。サディスティック・ミカ・バンドの加藤和彦とミカの夫婦はロンドンっぽくてどこまでもおしゃれだった。」(49ページ)
実は、私は、大学を出て就職したが、半年ほど原宿で販売員兼テナント管理の補助みたいな仕事をしていた。落ちこぼれの会社員で、きっちり2年で、ほうほうの体で田舎に帰ったのだが、職場は、まさしくセントラルアパートの一階、中庭がカフェとチャイニーズ・レストランで、中庭に面したフロアに小さなテナントを並べた「原宿セントラル・パーク」というスペースだった。1978年から79年にかけての半年である。アパートの上階には、糸井重里が事務所を構えていたし、当時、まだ高校生だったデビュー早々の手塚理美がエレベータ前で待っているところにも遭遇した。レオン珈琲店は、原宿のほかに青山にも店があった。黒っぽいインテリアだったと記憶する。パリのカフェかニューヨークのコーヒーショップのような空気感。
「70年代後半の原宿は古さと新しさが混在する特別な場所だった。銭湯や青果店、材木店があり、竹下通りにしてもごく普通の商店街だった。その一方、セントラルアパートには時代の寵児と呼ばれたコピーライター糸井重里が事務所を構え、表参道には菊池武夫のBIGIや大川ひとみのMILK、金子功のピンクハウスなどのブティックが軒を並べ、ペニーレインには井上陽水や吉田拓郎、加藤和彦らが夜毎出入りするなど、音楽でも最先端の界隈になっていた。」(86ページ)
吉田拓郎に「ペニーレーンでバーボンを」という曲があって、なかなかいい曲だった。ペニーレインは、店の前まで何度も行ったことがあるが、なぜか一度もドアを開けて中に入ったことがなかった。その中に踏み込んでいけなかった、ということが、なにか、その後の私の人生を決めた、というところがあったような気もする。23~4歳のころである。
モデルとしての小林麻美の代表作といえば、パルコのポスター、「隠微と退廃」の文字と 「人生は短いのです。夜は長くなりました」というコピー。そして、資生堂の「マイピュアレディ」(CMの歌は、尾崎亜美)だが、歌手としては、「雨音はショパンの調べ」。曲はイタリアのもので、詞はユーミン。小林麻美とユーミンとの合作というべき成り立ちのようである。
同い年の二人は、いつの間にか、親友になっていた。
「荒井由実は立教女学院中学のころから飯倉のキャンティに通い、大人たちにかわいがられ、晩餐を垣間見ていた。」(92ページ)
「東京に生まれ育ち、立教女学院、普連土学園と、10代の頃からミッションスクールに通った彼女たちは横浜、横田の米軍キャンプに出入りし、60年代のカウンターカルチャーのダイナミズムを知っていた。」(102ページ)
「東京に生まれ育ち、立教女学院、普連土学園と、10代の頃からミッションスクールに通った彼女たちは横浜、横田の米軍キャンプに出入りし、60年代のカウンターカルチャーのダイナミズムを知っていた。」(102ページ)
ああ、そういう世界。
憧れて、近くまで辿り着きそうにもなりながら、決して入り込めなかった世界。東京の女の子。それも、ちょっと遊んでいる女の子。
大学2~3年生の2年間は下板橋に住んで、少々歩いて、北池袋近くの池袋本町の商店街の中にある小さなブティック兼バー(というか、スナックといえばスナックなんだけどスナックとは言いたくない、みたいな。でも、当時、バーというと、一般にはまだまだホステスの付く店のことだった。)に、通っていた。イエローハットでもパンケーキでもピンクハウスでもない店の名で、当時25歳前後の奥さんと、芸大出なのに油絵を辞めた長髪を後ろで一本にまとめて口髭を生やした長身のご主人(もうすぐ30歳)のふたりで店をやっていた。そこで、水割りを飲んだり、マージャンをしたり、ずいぶんと可愛がってもらった。奥さんは、ちりちりのパーマで金髪で、日本女子大出で、店の一階の商店主の娘、何不自由なく育って、結婚前には、ずいぶんと夜遊びもしていたらしい。ボーイフレンドのジープでどこそこ連れて行ってもらったとか、そんな話を聞かせてもらうのも楽しかった。
その頃のことは、いつかきちんと書いてみたいとは思っている。ルポルタージュの手法できちんと取材して、というのでなく、あくまで書斎に籠って、私自身の記憶を再現する、みたいな方法で、と。店名は、もちろん覚えているのだが、あえて書かずに。フィクションとして。店の常連たちのこと。そしてご主人と、主人公はもちろん、奥さん。
というようなわけで、私の生きてきた道筋と決して交わらないのに、どこかすぐそばまで近づいて、見果てぬ憧れを抱き続けた世界が、この本には描かれている、ということになる。懐かしい。懐かしいのだが、虚構の懐かしさでもあるような世界。とても幸福な気持ちにさせられながら、最後には、虚しくため息をついて終わってしまう、というような世界。あらかじめ失われた喪失感、とでもいえばいいのだろうか。
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