ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

高橋源一郎編 読んじゃいなよ! 岩波新書

2017-05-09 00:08:57 | エッセイ

 副題は、「明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書を読む」。

 変わった書名だが、高橋源一郎ならさもありなん、というところだ。

 ゼミの学生がひたすら岩波新書を読んで、その著者の一部をゼミに呼んで、話をしてもらって、語り合うという演習の記録。それにプラス、ゼミ生が読んだ本を1冊ずつ紹介するコラムも含むという体。

 著者であるゲストは、鷲田清一(『哲学の使い方』)、長谷部恭男(『憲法とは何か』)、伊藤比呂美(『女の一生』)。

 ふむ、なるほど。

 高橋源一郎は、現在、私にとって最大最高最良の小説家。鷲田清一は、現在、私にとっての最大最高最良の哲学者にして、師と仰ぐべき人物である。この書物が、面白くないということはあり得ず、ためにならないということもあり得ない。

 ああ!いかんせん、わたしは、東京におらず、このゼミに不法な滞留者として潜り込むことあたわなかった、などと大時代に嘆いてみてもせんないことなのだが、その場に参加したかった。残念無念である。

 ただ、鷲田先生は、仙台メディアテークの館長なので、先日も、同館で開催された哲学カフェで同席することは叶ったし、何度か、直接お話を伺う機会も得ている。有難いことである。

 私は、いま、私なりの哲学カフェを行っていて、鷲田先生の直接の薫陶を受けたお弟子さんがたの正統な流儀からはいささか踏み外した自由なものになっているところではあるが、そろそろ、また新しい形で再開して行きたいと目論んでいるところである。

 この本は、また、高橋ゼミの進め方自体がそうだというべきであろうが、まさしく、一種の哲学カフェの記録である。私がイメージする哲学カフェというものは、こういうふうに進められる、想定されるバリエーションのうち、最良のパターンと言っていい、というようなところである。

 最初は、哲学者・鷲田清一氏を招いての回である。

 

「哲学と文学は遠いようで近い、近いようで遠い。ずっとそんなことを感じていました。鷲田さんとは一緒に新聞の紙面を飾ったこともあります。同志のような人なんですね。今日は、そんな鷲田さんのお話を聞き、いろいろな質問をさせていただきたいと思っています。みんなと読んだ鷲田さんの本の中に哲学カフェって出てきましたよね。哲学カフェというのは自由にものを考える場所なんだそうです。なので、ここは一応僕と鷲田さんが共同で主宰する哲学カフェみたいなものかなと思ってやりたいと思います。」(高橋 27ページ)

 

 と、まさしく哲学カフェのようなものと宣命される。

 

「さっき高橋さんは、自分は何も教えないとおっしゃったけど、僕が二十年ほどやってきた哲学カフェでもそう。ファシリテーターは自分が勉強してきたこと、研究し身につけてきた得意技というか、専門的な技を完璧に封じ込めるんですね。自分の専門的知識は一切使わないし、介入もしないで、皆さん、今日は何を話しましょうかで始めて、あとはもう成り行き任せ、みんなで話をしてくださいっていうので、あまりに話が逸脱したりすると、ちょっと戻しましょうというくらいの司会役で、自分が専門的にやってきた知識とか技は使わないのです。」(鷲田 30ページ)

 

 鷲田氏のお話は、デザイナーの山本耀司と会う時、お互い、ヨウジヤマモトのジャケットの中にユニクロを合わせたとか、無印を合わせたとかの話とか、その他興味深い話満載である。

 二人目は、憲法学者・長谷部恭男。

 憲法をめぐっての、一般国民と憲法学者ら専門家との関係、民主主義のパラドクスのようなこと。

 

「国民主権なのに何で答えを決めるのが国民ではないのかという問題があると思います。もちろんとても健全でまっとうな国家でしたら、その法律の専門家が紡ぎ出してくる憲法の内容は、国民の大多数が納得が行く、良識に即した解釈だということになっているはずのものです。…まっとうでない国家は世界中にいっぱいあります。そういうまっとうでない国家で、憲法が何かを決めているのは、じゃあ国民一般の世論なのか、それともその国の法律専門家が紡ぎ出した、これが憲法だと言われるものなのかというと、それは明らかに後者で、これは事実問題です。」(長谷部 195ページ)

 

 憲法とは良識であると。専門家は、必ずしも多数決にのみ従うべきわけでもないし、法令に書いてある言葉通りに判断すれば間違いないというわけでもない。

 

「裁判官も人間ですから、おかしいなと思った時には良識に戻らないといけない。本来人間としてどうあるべきなのかということを理由に基づいて考えたらこういう結論にはならないはず。そういう時のために、裁判の場で使われるのが、憲法違反だという理由づけです。憲法に照らして考えればというのは、要するに良識に照らして考えれば、そうしなければという話です。」(長谷部 196ページ)

 

 伊藤比呂美は、あの伊藤比呂美である。私が二十代のころにすい星のようにデビューした女流詩人。当時からずっと、現代詩界のスーパースターである。

 「カノコ」という、彼女の長女が生まれたばかりのころのことを材料に書いた詩の朗読などもあり、圧倒的なパワーの対話が続いている。

 ところで、高橋源一郎とは、当時お互いに強く惹かれあっていたという。

 

「この対話で感動したのが、出会った頃、とっても惹かれあってたから結婚してもよかったんだけど、しなかったよねえという話。でももし結婚してたら九年くらいで絶対離婚して、私はアメリカに行って結局同じようになってるだろうという、三〇秒くらいで人生総括する結論が出た(笑)。」(伊藤 272ページ)

 

 最後、末尾のおまけとしてついているゼミの非正規メンバーたちが語り合った座談会からまとめのようなこと。

 

「文学のことを高橋先生が語った瞬間に、何かカッコ付きの「文学」も見えてくる。そこは僕はすごく気持ちがいい。単純な言い方なのですが、何か自分の頭の風通しが良くなるし、そういう意味での新たな問いも生まれてくるし、小説以外、文学以外のことにもこうつながってくる。だから、本当に世界の見え方が少し変わっていくというのがすごく楽しいと思ってきている感じですね。」(おまけ 4ページ)

 

「ふだんは気付いていないけど、僕らは多分紋切り型の考えで世界を歩いているんです。でも、ある時、少し立ち止まってみて、高橋ゼミで、先生の話とかをみんなで聞いていくと、ちょっとなんて言うのかな、あ、そういう見方もあるんだなっていうか、いつもは、僕らが当たり前と思っている声とはまた違った声が聞こえてくる。その声を聞くことによって、ちょっと世界の見え方が変わるっていうのかな。」(おまけ5ページ)

 

 まさしく、私が目指す哲学カフェのような事態が実現した場所のようである。


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