ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

大石学トリオ at 気仙沼ヴァンガード

2015-10-27 00:48:47 | エッセイ

 夕べ、10月25日(日)、南町のヴァンガードで、大石学トリオのライブ。

 大石学ピアノ、米木康志ベース、則武諒ドラムス。

 気仙沼市南町のジャズ喫茶ヴァンガードは、特別な場所である。以前「特権的な場所特権的な時間」という詩を書いたことがあって、これは、われわれ地元の音楽仲間(ロックとジャズである)が集まって、狭いこの店で行ったライブのことを書いたものだ。

 この狭い空間の中で、ひとが演奏し音が鳴っている、それを聴く人々がいる、これはもう特別な場所特別な時間と言うほかない。

 この夜の大石学トリオのライブもまさしくそういう時間、そういう空間となった。そしてそういう中でも、もっと特別な、最上級に特別な、と言ってしまって良いような。

 ここのところ、ヴァンガードのライブは続けて聴いている。とはいっても、この一年間の中で3回め、というところ。前の2回も、あえて、ここでは誰それと言わないが、そんな贅沢な時空を提供してくれた機会であることはいうまでもない。

 この夜の演奏は、よく聞くと最低限度を更に下回ったような音数、音量しか鳴っていないのに、聞こえているのは、充実した、鋭角でかつ心地良い音楽だ、みたいなこと。

 ピアノの左手の和音は、同時には1音か2音づつしか弾いていない感じがするし、それでいて、単純な和音でなく、心地よい不協和音が響いている、それもいつ打鍵したのか気付かないうちに音が鳴っているような、右手は必要な音は正確に力強く叩くし早弾きの時には著しく早く弾くが、打鍵数を著しくセーブして、拍の頭で打たずにとびとびに裏を叩いて複雑なリズムを感じさせるとか、まあそんな感じ。

 ドラムは、余計な力がひとつも入らず、繊細に小さな音を、無理に力づくで抑制してというふうでなく余裕で叩いている。音が入るべきところで正確に入る。音数は、最低限にセーブされている。手を振らずに振動でほぼ自動的に叩いている細かいリズムも正確にコントロールされているが、それももちろんのべつまくなしではない。バスドラムは、本当に必要な時しか叩かない。ある一曲まるまるバスドラが入らないみたいな勢いだが、音圧が不足だとか、音量が足りないとか、そういう不満はひとつも感じさせない。ステージラストに近く、クライマックスのときは、相応の音量で叩いて見せるシーンも作る。

 ベースは、ウッドベースで、マイクを通していない。というか、このバンド、PAも個別のアンプも全く使わず、すべて生音である。開放弦は深く豊かでしかし乾いた鋭い音質である。高音部で弦を押さえたところ、乾いた軽めの音だが、しっかりと音がして、かつ伸びる。音符の長さだけ正確に同じ音量で音が持続する。左指でビブラートをかけている様子がなく、もちろん、はじき直すこともない。エレキベースであれば、こういう音の鳴りかたは聴いたことがあるが、これは、ピックアップなしのウッドベースである。

 ということで3人が3人とも超絶技巧なのに違いない。

 今回は、最前列、大石氏のすぐ後ろで聴いていた。字義通り、特権的な場所特権的な時間であった。

 最初の曲、ビル・エヴァンズのような、と思ったら、そのもの、タイム・リメンバードという曲のようである。2曲目、チック・コリアのようなと思ったが、そのものではないのだとは思う。

 全般に、ゆったりとはずしたようなスイングなジャズ、というよりは昔でいうクロス・オーバー風の、タイトなビートだと感じた。アコースティックな編成の、スカスカの音数、音量で、ずっじり分厚くタイトでファンキーな音を聴かせるトリオ、と言ったらいいだろうか。


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