春日武彦氏は、精神科医にして作家だという。ずいぶんと多数の著作をものされているようだ。1951年生まれ。ちょうど70歳に到達されている。
「はじめに」に以下のようなことが記される。
「精神科の診断は、精神疾患の分類体系をもとに行われる。…人は心を病むにしても「前代未聞のユニークな病み方」をすることなどない。少なくとも精神科医からすれば「いかにも」な病み方をするのであり、その「いかにも」がパターンというものに他ならない。」(6ページ)
「観察という本来の態度に立ち返り、あらためて精神疾患のパターンを確認し理解しようというのが本書の狙いである。…この小著を通して、読者諸氏が精神疾患に「よりリアルな」イメージを持つようになっていただければ、筆者としても執筆の甲斐があったと笑みを浮かべられる次第である。」(8ページ)
末尾の「おわりに」には、こう記される。
「この本では、精神疾患の正しい「病気らしさ」を把握し、リアルなイメージを獲得していただくことを目標にしたのであった。さらにその派生として、そもそも病気とは何なのか、治療の意味、幸福のありよう、普通であるとはどのようなことなのか等について(いささか斜に構えつつ)言及した。」(276ページ)
患者各々のユニークな病み方に着目し寄り添うというよりは、患者を冷静に距離を置いて観察し、「いかにも」ありそうなパターンにあてはめ、日々の忙しい診察に追われながら、精神科医が「リアル」に感じていることを、「いささか斜に構えながら」言及した書物ということになる。
裏に回って、精神科医の医局の楽屋話を聞かせられているような、思わずシニカルな笑いを浮かべてしまいそうな書物、なのかもしれない。クレーマーのこと、境界例のこと、患者から被った苦労話、あるいは時には失敗談を聞かせていただける。精神科の病院に縁のないふつうの一般人にとって、精神疾患のリアルを知ることのできる格好の入門書というべきかもしれない。そういう一般の読者にとっては、読み終えて著者とともに笑みを浮かべられる書物かもしれない。
ところで、著者が読者として想定した対象に、患者本人とか、その家族親族は含まれているのだろうか?
さて、「はじめに」で、上に引用した「観察」の重要性を述べる前段に、18世紀フランス革命期の、医師フィリップ・ピネルの「鎖からの解放劇」のことが語られ、春日氏の解放という美名への懐疑が語られるが、そこは割愛する。
【精神科医にとっての悪魔の誘惑】
序章「やってはいけない」の最初の節「悪魔の誘惑」について、前段の方でも語りたいところはあるが割愛し、以下のところを引く。悪魔の誘惑の4項目である。
「禁を破ったなら破ったなりに興味深い知見が得られて今後の診療の役に立ちそうな誘惑…を以下に四つばかり書き並べてみたい。
①患者の日常生活を、隠しカメラで逐一観察してみたい。
②プラセボを日常診療で駆使してみたい。
③実在しない病名を告知してみたい。
④根拠のない処方を存分に出してみたい。」(18ページ)
と書き出した④について、また4項目全体に対して以下のように述べる。
「精神疾患が薬理レベルですべて解明されているわけではない。処方はせいぜい「当たらずとも遠からず」であり、そんなあやふやなものを試行錯誤していくうちに、時間経過や状況変化とも相俟っていつしか改善していくケースが多いのである。」(31ページ)
「悪魔の誘惑は、結局のところ精神医療の曖昧さと非科学性を示唆しているだろう。さらには精神科医としての無力感や苛立ちを意味している。」(35ページ)
「悪魔の誘惑については私の戯れ言として受け取っていただきたいが、数限りなくそれを繰り返さねば意味がないことに気づいた瞬間には、正直なところ愕然としたのである。そう、精神科医は眼の前の患者その人——すなわち個別性を尊重しなければならないのに、尊重すればするほど悪魔の誘惑(それは多かれ少なかれ患者をないがしろにする振る舞いであろう)はくっきりと立ち上がってくるのである。」(36ページ)
ここで書かれていることを、私なりにピックアップしてみると、下記のようになる。
a精神疾患は薬理レベルですべて解明されていない
bあやふやなものを試行錯誤していくうちに、いつしか改善していく
c精神医療の曖昧さと非科学性
d精神科医としての無力感や苛立ち
e眼の前の患者その人——すなわち個別性を尊重しなければならない
f悪魔の誘惑は多かれ少なかれ患者をないがしろにする振る舞い
a、b、cは、科学たろうとするのに(少なくとも現時点では十分には)科学たりえない精神医学のことであり、dは、科学者の一員でありたい精神医学者であればだれでもが感じるところに違いない。eの個別性の尊重については、人間として当然の倫理であり、精神医学者としても、守るべきことであるが、fの悪魔の誘惑と並べてみたときに、頭では分かっているはずなのについ蔑ろにしてしまう建前というふうに見えてくる。fは、もちろん、「悪魔の」と形容されるように、よろしくないものであることは重々承知のはずであるが、精神科医は、ついついそちらを欲望してしまう。
春日氏は、精神医学が科学でないことにいら立っておられる。a、b、cこそは、精神医学の後進性の証拠であると思い込んでおられる。ひょっとすると春日氏のみならず、世の精神科医の大方が、同様の思いにとらわれているのではないか?他の一般の医科に比べてもなおさら精神科は科学ではないという偏見にさらされているという卑屈な思い込みに囚われているのではないか?
しかし、私が、このところ読書させていただいている精神医学関連の書物を読む限り、a、b、cは、精神医学の特性ではあっても、決して欠点ではないと語られているように思われる。むしろ、その点にこそ、精神医学の可能性は開けていくと言われているのではないだろうか?(これらを欠点だと見なすのは、通俗的な科学理解であり、科学というものに対する誤解とすら言えるかもしれない。)
【精神科医が活用しうる手段と不得意な分野】
悪魔の誘惑についての引用の中に、下記のような記述もある。
「もし「本当に」病気の人が目の前にいたら、やはり薬を武器に病気を改善しなければならない場合が多い。」(33ページ)
中井久夫のcure(治療)とcare(看護)、外科医にしてカトリック者である山浦玄嗣の、キリストについて語るcure(治療)とcare(手当て)の対比に準えていうと、大雑把に言って、医学の中でも特に精神医学においては、cureによる治癒というよりは、careによる改善のほうが有効なのではないかと言われていると私は理解している。
そういうなかで、一般の精神科医は、careの手段として薬しか用いることのできない悲しき職種なのではないかと、私は怪しんでいる。患者の話す内容を傾聴して対話するのでなく、冷静に話し方とか表情を観察して診断し、薬を処方し、診察人数をこなす。
まあ、それは極論に違いない。
(もちろん、薬も、有効な手段の一つであることは間違いない。)
第4章「神経症は気の迷い?」では、たとえば、こんなところ。
「いわゆるベテランに属する精神科医は、あえて神経症という言葉をカルテや診療情報提供書(いわゆる紹介状)に記すことがある。それは彼らの頭が動脈硬化をきたしたり化石化しているからではない。そこには以下に記すような事柄が、いくぶん諦め半分、ため息半分に表明されているのである。(このような微妙なニュアンスを理解せずに、いまどき神経症なんて言葉を使うとは、と嘲笑するのは軽率であろう。)
(a)治すというよりも、いかに自分自身と和解するか、いかに世間と折り合いをつけ妥協していくか、つまり生き方の根本を問い直す作業が本来的には必要。それは途方もなく大変な作業であろう。」(140ページ)
(b)(c)(d)は割愛するが、この(a)で語られていることは、端的に非常に重要なことである。ソーシャルワーク、社会関係の調整が必要なのである。一般の精神科医にとっては不得意な分野かもしれないが、「諦め半分、ため息半分」に語られるべき事柄ではない。動脈硬化とか、化石化とか、嘲笑とか、例示してから否定するのではあっても、そんな言葉を持ち出すべきところではない。
「気のせいではあるけれど」と名付けられた節で、
「といった具合にあれこれとカウンセリングについて書き綴ってみたが、それを乱暴に要約してしまえば、「心のうちをきちんと語れば(そして誠実に耳を傾けてもらえれば)症状は改善します」といった単純きわまりない話になってしまう。」(150ページ)
ここで、なぜ、「乱暴に要約する」とか「単純きわまりない話」などという、揶揄するような言葉を使うのだろう。シンプルではあっても、とても重要なことである。
「…シンプルであることを軽んじたり、侮るべきではあるまい。…わたしたちは言語化というプロセスの大切さを今一度認識して、ときには愚直かつ丁寧に自分の心と向きあう必要があるのだ。」(150ページ)
とは、言っているわけだが。
このあたりで、引用は充分かもしれないが、あえて、もう二つ、エピソードを引いておきたい。 (後編に続く)
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