ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

中井久夫 世に棲む患者 ちくま学芸文庫

2020-04-16 21:51:50 | エッセイ
 精神科医、神戸大学医学部教授であった中井久夫の著作集(岩崎学術出版社刊)の第五巻「病者と社会」を中心に編みなおした文庫版で、ちくま学芸文庫・中井久夫コレクションの一冊である。
 世に棲む患者とは、精神を病んだ患者もこの世に住まっているということであろう。どこかこの世ならぬ場所に隔離されて、われわれとは全く違う世界に存在するものではない、ということであろう。
 患者も、ここにいる、のである。共にいる、のである。(かく言う私も、患者であるかもしれない、などというと話が拡散してしまうことになるか。)

「統合失調症圏の病を経過した人の社会復帰は、一般に、社会の多数者の生き方の軌道に、彼らを”戻そう“とする試みである、と思いこまれているのではないだろうか。」(8ページ)

 冒頭の一編、「世に棲む患者」は、そう書きだされる。

「…私の言いたいのは、多数者の途に——復帰するのでなく——加入することが、たとえ可能だとしても、それが唯一の途ではないだろうということである。また、敢えていえば、常に最善の途だろうか。」(8ページ)

 おや、中井氏は、精神を病む患者は、ふつう一般の人びととは違う、別の世界に復帰していくのだと主張するのだろうか?その方がよいのだ、と語っているのだろうか?

「まったく、経験、それももとよりわが国だけの、そして狭い私の経験に頼って言うことだが、寛解患者のほぼ安定した生き方の一つは——あくまで一つであるが——、巧みな少数者として生きることである、と思う。
 そのためには、たしかにいくつかの多数者であれば享受しうるものを断念しなければならないだろう。しかし、その中に愛や友情ややさしさの断念までが必ず入っているわけではない。
 そして、多数者もまた多くのことを断念してはじめて社会の多数者たりえていることが少なくないのではないか。そして多数者の断念したものの中に愛や友情ややさしさが算えられることも稀ではない。それは実は誰もが知っていることだ。」(10ページ)

 社会の多数者、つまり、いわゆる「健常者」、精神の病を持たぬとされているひとびとが生きている人生、歩んでいる途、それが完全に理想的な人生などではない、ということ、さまざまな問題を含みこんだものであること、そういうことは、実は誰でも知っているはずのことである。この社会は、ひょっとするとすでに、愛や友情ややさしさを失ってしまった社会であったのかもしれない。
 そういう生活世界にそのまま戻っていくことが、そのまま良きことであるとは限らない。
 そういう意味では、病を抜け出たものが、また別の世界にたどり着くということはありうる。もう一つ別の途、そういうものがありうる。いわゆる普通のひとびとの普通の生活という枠に無理やり潜り込んでいくというのとは、また、違う境位にたどり着く。
 病を得て、病から立ち直ったものの進む途とは、病の経験のないものの通る途よりも、もっと豊かな途でありうる。ほんとうの意味で幸福な生活が送れるようになる、そういう可能性もあるわけだ。
 そして、言うまでもなくそこは、全くの別世界、パラレルワールドではありえない。まさしくこの現実の世界だ。しかし、その現実の世界は、一本の価値観に染め上げられたのではなく、複線の、多様な価値観のある世界。
 そういう世界に共存することによって、病を経験しなかった者も、もっと豊かで幸福な生活をおくることができるようになる。
 おや、いつの間にか、話が逆転してしまったかもしれない。いわゆる健常者のほうが、病んだ社会に生きているのだ、と私は言ってしまっているのかもしれない。
 病んだものが、現今の世の中の在り様に対する、身を挺したアンチテーゼでありうる、そういうこともあるのかもしれない。
 炭鉱のカナリアのように。
 中井氏は、次のように語っている。

「治療者というものは常識と社会通念とを区別して考えるべきであると私は思う。」(15ページ)

 ここでいう「常識」と「社会通念」とは、もちろん、常識のほうを肯定的に、社会通念を否定的に語っている。
 〈いわゆる健常者の生きている世界も、様々な問題の多い社会である〉というのが常識なら、〈健常者の生きている世界のほうが、病者の生きる世界よりも、ずっと問題が少ない健康的な世界なのだ〉というのが社会通念だと言えばいいだろうか。
 下記の「哲学」、「固定観念」は、まさしくここでいう「社会通念」であろう。

「治療者と患者の共有しがちな「哲学」あるいは「固定観念」で、患者あるいは元患者が世に棲む妨げになっているものがある。
 …
 第一は、「治るとは働くことである」という哲学あるいは固定観念である。これは容易に逆転されて「働くとは治ったことになる」という命題となって患者をあせらせる。あるいは(魔女狩りに代わって登場した精神医療の基本線の一つとして)患者を「労働改造」させようとする。
 第二には、「健康人とは、どんな仕事についても疲労、落胆、怠け心、失望、自棄などを知らず、いかなる対人関係も円滑にリードでき、相手の気持ちがすぐ察せられ、話題に困らない」という命題である。」(33ページ)

 まあ、病者に比べて、健常者は、比較的にはそうなんだと言えば、その通りかもしれないが、どんな人だって、疲れるし、落胆するし、「いかなる対人関係も円滑にリードでき」たりはしないものだ。

 二編目は「働く患者——リハビリテーション問題の周辺」。第3節は「一般に人は何のために働くか」と題される。
 働くとはどういうことか、ここでは省かせていただくが、3か条をあげて論じており、なるほどと納得しうる。
 その中で、こういうことが語られる。

「私は、患者の自尊心は「治療という大仕事」を行っていることに置いてもらうのがいちばんよいと思う。」(51ページ)

 そうなんだよな。治療という大仕事を行っている。
 ここは、よくよく噛み締めておくべきところだ。
 第4節「「働く人」としての非患者と患者」で、

「非患者の労働を観察する時、そこには驚くほどきめ細かに休息が織り込まれているのを発見する。」(53ページ)

 患者は、休むのが下手なひとびとなのだ。社会通念的には、休んでばかりの怠け者と捉えられているに違いないが。まじめすぎる人々。そして、「治療という大仕事」に専念している人々。
 ところで、付録として「仕事のみならず、一般に顕著な生活再開に当たっての助言」というのがあって、その中に薬について語っているところがある。

「九 薬は無理していなければ、水のように何とも感じず、無理をすると眠くなるように処方する。無理をしても一寸それを感じるのが遅れるところがあるのを薬で補っているわけだ(思い当たるふしのある患者も多い。)眠くなったら「休憩しなさい」という信号と思ってできればひそかにでもそうしてほしい(そしてそのような処方のポリシーをとる)。
 十 薬はだから保険のようなもので、だんだん身体からの警告が分かるようになると必要性は下がっていくから、教えてほしい(実際にそれが分かるようになった患者から応時服用に切り替えていく)。」(69ページ)

 こんな薬の使い方であれば、納得できる、信頼できる。こういう精神科医を受診出来たらどんなに安心できることだろう。
 このあと、第2部、3部と、統合失調症、アルコ―ル症、妄想症、境界例、強迫症など、説き語りと名付けて、講演で語ったものを中心に収録されている。いちいちが納得できる語りである。
 末尾の解説で、弟子(といっていいのだと思う)の岩井圭司がこう書いている。

「…中井久夫を貫いているしなやかで太い”芯“のようなものを、世紀の境目を越えて感じ取っていただけたらと思います。」

 『世に棲む患者』は、中井久夫のしなやかで太い“芯”を確かに感じ取ることができる書物であるといって間違いないところである。



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