仙河海サーガの第4作。もともと河北新報などに連載されていた。2013年4月から320回、1年間ということになるのだろう。
連載されていることは知っていた。何度か、読んだことはある。しかし、私は新聞小説を読む習慣がない。そのうち、出版された段階で読もう、と決めていた。
サーガ、とは、古いアイスランドの神話群、ということになるだろうか。
直木賞作家熊谷達也氏による、東北地方太平洋岸の架空の都市「仙河海市」を舞台にした小説群。これまで「リアスの子」、「微睡みの海」、「ティーンズ・エッジ・ロックンロール」の3作が出版されている。他に雑誌に発表されたものもすでにあるようで、今後、引き続き執筆されていくのだろうと思われる。
19世紀フランスの小説家バルザックは、その小説総体を人間喜劇と称し、パリを中心とした当時のフランスの世相をトータルに表現しようとした。ある小説の登場人物が、そのままの設定で他の小説にも登場する。あたかも、現実の世界と同じように、どこそこの土地のどこそこの家に、ある人物が住んでいる。ある会社にある人物が勤務している。ある人とある人が夫婦である。それらの、ある部分を切り取ると一つの小説になり、他の部分を切り取ると別の小説になる。
熊谷達也氏の仙河海サーガも、同様に、仙河海の人々を登場させ、様々なシーンを切り取って、小説とする。同じ人物が同じ設定でさまざまの小説に登場する。ある場合には主人公として、ある場合には脇役として。
つまり、仙河海版「人間喜劇」といったほうが良いのかもしれない。
人間喜劇とは、“La Comédie humaine”(フランス語)の訳であるが、このコメディは必ずしも、その名の通りの喜劇ということではないようである。“Tragedy”―「トラジディ」が悲劇ということになるが、それとは別のもの、悲劇ではないものではあっても、必ずしも笑わせるためのものということではないという。
ちなみに有名なダンテの神曲は、“La Divina Commedia”、(イタリア語)直訳すると「神の喜劇」ともなりそうだが、これもその名の通りの喜劇というわけではない。
16世紀イタリアのダンテの神の喜劇に対して、19世紀フランスのバルザックが、人間の喜劇を書いたわけだが、熊谷達也氏は、その系譜の先に、「仙河海コメディ」を構想した。
バルザックのフランス、パリに対して、熊谷達也氏は仙河海市を描こうとする。
ところで、周知のことだが、熊谷達也氏は、元中学校の教師であって、気仙沼中学校にも赴任なさっていたことがある。
ちなみに、気仙沼市には、熊谷姓の市民が多い。小野寺に次ぎ、斉藤、佐藤を抑え、あるいは並んで多い姓となっている。源平の物語で高名な熊谷次郎直実の子孫が、戦国時代までこの地方の領主であり、その後裔がそのまま住み着いている。しかし、達也氏自身は、気仙沼の出身ではない。(ただし、何代かさかのぼれば、気仙沼熊谷氏の系譜に連なる可能性は高いものとは思う。伊達家の士分に取り立てられて仙台城下に移住した系統もあるようである。)
気仙沼出身ではないにもかかわらず、赴任していた先の気仙沼には、何ものか大きな印象は持たれた。
そして、2011年の震災があった。あの大きな津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の町。その中でも、実際に暮らしたことのある気仙沼に、重ねて大きな思いを持たれた。
震災は、東北に住まいする作家として、ぜひとも書かねばならないテーマであり、その際に、実際に数年間暮らし、中学生の子供たちとふれあった気仙沼のまちを舞台にする、ということはむしろ必然のこととなるに違いない。
もちろん、東北地方に「仙河海市」などという都市は実在しない。架空の都市である。しかし、「仙河海」は、氏が中学校教師として暮らした気仙沼に、ほぼ完ぺきに重なってしまう架空の都市である。仙河海は、気仙沼ではない。気仙沼ではあるのだが、気仙沼ではない。あくまで架空の、小説というフィクションの舞台である土地である。
実は、小説の中で、仙台とか、登米市とか、一関とか、周辺の地名はすべて実際の地名で登場する。国道や三陸沿岸道のつながり具合は、まさに、そのまま気仙沼でしかない。仙台は、今回の主人公が実際に被災した場所に設定されている主要な土地であるにも関わらず、実際の地名をそのまま使っている。
この虚構作品の舞台はあくまで虚構の仙河海市なのである。仙台は、あくまで傍流のその他の土地のうちの一つに過ぎないことになる。
虚構作品とは、フィクションであり、つまりはノンフィクションではない。
主要な登場人物は、あくまで実在しない虚構の人物である。虚構の人物が行動する虚構作品である。
しかし、中にモデルのある登場人物が登場する。これはあくまでも脇役である。そして、震災の当時、まったくそのとおりに行動したわけではなく、あくまで、キャラクターとして、そういう場合にそういう行動をとりそうだという行動をあてがわれ、筋立てを進行させる役割を与えられているに他ならない。あたかも寸劇の役者のように。
そして、かれらは、ほんとうに魅力的な人物に描かれている。こんな局面に遭遇すれば、気仙沼の人間ならばこんなふうに行動したに違いない、むしろ、端的にこの人物なら、こういう行動をとったはずだ、実際、あんなふうに行動したこともある、そうそう、こんな気持ちの、こんなこころ栄えの人間だ、などと。
しかし、主要な人物は、あくまで架空の人物である。テレビドラマに欠かせない魅力ある女優が演じるような役はあくまで架空の登場人物である。
架空の人物でありながら、実際の気仙沼にそういう人物はいるかもしれないし、そんな場面に遭遇したら、そんな行動をとるに違いない、と思われるような人物。こういうメンタリティは、まさしく気仙沼人のものに違いない、と思わされるような人物像。
そういう意味では、この小説は、まさに気仙沼にとってのひとつの神話なのであるといって間違いではない。現実の気仙沼に重ねられるパラレルワールド。このシリーズが、神話叙事詩サーガの名を冠されるのは理由のあること、ということになる。
第一部は、震災のときの詳細な描写。仙台で氏が実際に体験した地震の描写であり、その後、被災地を自分の目で見た描写。優れたルポルタージュであるといえよう。そして、人間のつながりを、熊谷氏らしい暖かいまなざしでとらえていく。
第二部は、SF、近未来小説の趣である。いま、被災地において進められている事業が貫徹した暁に、数十年先にどんな街が生まれるのか。巨大な防潮堤に囲まれた街がどんな街となるのか。必ずしもユートピアが描かれるわけではない。
登場人物には、森は海の恋人の主唱者、「牡蠣じいさん」畠山重篤氏の面影が投影されていたり、川島秀一東北大学災害研教授から学んだと思われる知見が生かされていたり、現在の気仙沼の状況を正確に捉えて、ひとつのシミュレーションを描き上げたものといえる。
そして、量子力学、相対性理論を使って(ユートピアの道具立てに例のリニアコライダーも登場する)、タイムトラベルの可能性を示唆し、未来への違う選択を暗示する。
第三部は、時を遡って、まさしくいま、現在。震災から数年を経たとき。未来へつながろうとする、復興へ進もうとする気仙沼。広く世界へつながる気仙沼人のメンタリティ。いま、ここで、気仙沼人ならどんな選択を行うのか。
開放的で開明的で文化的で、確かな洞察力を持ち、海の民、漁労の民として既成の権力にまつろわぬもの、誇りをもち、自由でありながら、ゆるやかな連帯を求めるもの、そういう気仙沼人がどんな未来を選択していくのか?
いや、「仙河海人」が、どんな未来を選択するのか、どんな生き方をここで見せていくのか。
熊谷達也氏の「潮の音、空の青、海の詩」は、そういうことが描かれた小説である。
「仙河海サーガ」が語り続けられることによって、その舞台と仮構された気仙沼が、ひとつの夢の街に生まれ変わっていく。このシリーズは、この街にとって、ほんとうに大切な宝物であり、熊谷達也氏からのかけがえのない贈り物である。私たちは、心して読み継いでいかなければならない。
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