表紙、挿絵は、高妍。
この画家について、あとがきのほとんど末尾に、村上春樹はこう書いている。
「彼女の絵にはどこかしら、不思議な懐かしさのようなものが感じられる。」(101ページ)
装丁は、文庫本サイズのハードカバー。いつか、こんな瀟洒な本が出せたらと思う。まあ、詩集だろうな。自費出版でも、一冊くらいは作れるだろう。久しぶりに懸命に手売りしてもいい。
この書物は、サブタイトルの通り、村上春樹が、自分自身の父親について語るものだ。ごく私的なエッセイ、なのだろうか。
「父親に関して覚えていること。
もちろん父に関して覚えていることはたくさんある。なにしろこの世に生を受けてから、一八歳になって家を離れるまで親子として、それほど広くもない家の中で、ひとつ屋根の下で、当然のこととして毎日起居を共にしていたのだから。僕と父の間には――おそらく世の中のたいていの親子関係がそうであるように――楽しいこともあれば、それほど愉快でないこともあった。でも今でもいちばんありありと僕の脳裏に蘇ってくるのは、なぜかそのどちらでもない、とても平凡な日常のありふれた光景だ。」(9ページ)
この短い引用のなかに、いかにも村上春樹らしい言い回しが、いくつも出てくる。「もちろん」、「なにしろ」、「おそらく~たいていの~がそうであるように」、「それほど愉快でないこともあった」、「とても平凡な日常のありふれた光景だ」。
なんだろう。村上春樹の世界では、どんなに驚くべき非常識な事態でも、常に、あたかもありふれた日常のように描かれる、ということだろうか。極端な尖った感情は、いつも一見抑制される。すべての出来事は、前もっていくらかは予見されたこととして描かれる。見通しのきかない急カーブはなく、明確にくっきりと、ということもないのだろうが、何かうすぼんやりと正体が分かっている、というような。村上春樹にとって、何かを書くとは、前意識から浮かび上がってくる何ものかを掬い取って表層意識化していく作業ということなのだろうか?
さて、ここで「とても平凡な日常のありふれた光景」として書き出されるのは、以下のようなことである。
阪神間に住んでいたころ、父親と一緒に海岸に一匹の猫を捨てに行ったことがある、のだという。どこから書き始めようか手につかずにいたとき、ふとこのことを思い出して、そこから筆が動き始めたと。
しかし、なぜそんなことをしたのか謎なのだと。
そして、その謎解きは行われないまま、また別のエピソードを書き始める。
「もう一つ父に関してよく覚えていること…。
それは毎朝、朝食をとる前に、彼が仏壇に向かって長い時間、目を閉じて熱心にお経を唱えていたことだ。いや、仏壇というのではない。菩薩を収めたガラスの小さなケースだった。美しく細かく彫られた小さな菩薩が、円筒形のガラス・ケースの中央に収まっていた。」(15ページ)
こちらは、「とても平凡な日常のありふれた光景」とは、とても言えない、ふつうの家庭ではありえない情景である。実は、この二つ目のエピソードのほうが、初めから念頭にあって、ここに書き残したかったことに繋がっていくものだったのではないか。
それは、戦争の体験である。中国や東南アジアに従軍した体験である。そしてそれを引き継いでいく歴史の意味である。個人の体験を、残されたものが引き継いでいくことから成立する人間の歴史。
「いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼きつけられることになった。ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として、言い換えれば父の心に長い間重くのしかかってきたものを――現代の用語を借りればトラウマを――息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりとはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は〈引継ぎ〉という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう。」(52ページ)
作家が、その父から引き継いだ特別な体験、トラウマ、そのことから書き始めずに、別の他愛のないエピソードから書き始める。
これは、作家のレトリックではあるだろう。しかし、そこにはひとつのリアリティのようなものが確かにあるように感じられる。
人生には、事件もあるが、常には、平々凡々な日常が続く。事件の事件性は、平凡な日常の中にあってこそ際立つ、ということかもしれない。
以下の引用は、ここでのこの書物の紹介としては、脇道の話題かもしれないが、私自身の来歴、親からの影響、学業成績、大学入学というあたりで、シンクロするところ、食い違うところがあり、私自身の物語りを誘発されるところではある。
「父はもともと学問の好きな人だった。勉強することが生きがいのようなところもあった。文学を愛好し、教師になってからもよく一人で本を読んでいた。家の中にはいつも本が溢れていた。僕が十代にして熱心な読書家になったのにも、あるいはその影響があったかもしれない。」(57ページ)
「しかしそれはともかく、父の学業成績が終始優秀であったことだけは間違いなかったようだ。
それに比べると残念ながら(というべきだろう)、僕には学問というものに対する興味がもともとあまりなく、学校の成績は終始一貫してあまりぱっとしないものだった。好きなことはどこまでも熱心に追及するが、好きになれないものにはほとんど関心を持てないという性格は、今も昔もまったく変わらない。だから当然のことながら、小学校から高校に至るまでの僕の学業成績は、それほどひどくはなかったものの、決して周りの人々を感心させられるような代物ではなかった。」(58ページ)
ここで、「それほどひどくはなかった」というあたりは、村上春樹らしい言い回しということにはなる。「残念ながら」など書いたとしても、ほんとうは、ちっとも残念ではないはずだ。「(というべきだろう)」という注記にその気持ちは明確に、というべきか、それとなく、というべきか、表れてしまっている、というべきだろう。それはそれとして、シンクロし、食い違うことによって触発された私の物語については、また、別の機会に書くこともあるかもしれない。
さて、末尾に、作家は、タイトルとなったエピソードを、再び書き記す。
「たとえば僕らは夏のある日、香櫨園の海岸まで一緒に自転車に乗って、一匹の縞柄の雌猫を捨てに行ったのだ。…」(88ページ)
ここに続く一節は引用しないでおく。取り立てて目を見張るような謎解きがあるわけではないが、このエッセイを読んだ時の肝要なところがここに記されてある、ということになる。
明確に主題化される内実からは外れたような余剰を描くことの意義、というようなこと、というべきだろうか。
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