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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

ヤーコ・セイックラほか オープンダイアローグを実践する 日本評論社

2017-03-09 23:36:32 | エッセイ オープンダイアローグ

 著者は、ヤーコ・セイックラ、トム・エーリク・アーンキル、高橋睦子、竹端寛、高木俊介ということになるようだが、2016年5月に京都で行われた「「日本におけるオープンダイアローグの実践とその課題」と題されたシンポジウムの記録と、その後の、日本側シンポジスト3名による補足の論考からなる。

 ヤーコとトムは、フィンランドで、オープンダイアローグとか「未来語りのダイアローグ」とか呼ばれる技法の創始者と言っていいのだろう。ヤーコは、臨床心理士、トムは、社会学者とのこと。

 高橋睦子氏は、吉備国際大学保健福祉医療学部教授、フィンランドの子育て支援のネウボラの紹介者。竹端寛氏は、山梨学院大学法学部教授、高木俊介氏は、精神科医、「オープンダイアローグ」(日本評論社)の翻訳者。

 同年3月の「オープンダイアローグ」の翻訳以降、

 

「少々過熱気味ともみえる期待ばかりがふくらみ、一時的な流行のようにもてはやされているだけではないのか、という危惧がつきまとっていた。」(はじめに)

 

と高木氏は記す。このシンポジウムの記録の刊行により、正確な知識をもってひろまっていくことが期待される、ということになるのだと思う。

 私自身、一昨年7月に、齊藤環氏の「オープンダイアローグとは何か?」、それ以前に、「現代思想」2014年5月号の精神医学についての特集で同氏の紹介を読んでいたが、いささか、舞い上がったともいえる思いを抱いたところだった。

 これは、行ける、これが広まれば素晴らしいことになる、しかし、日本の医学を取り巻く現状においては、なかなかに難しいことがあるだろう、などとは思えた。

 私なりに、私なりの哲学カフェを始めようとしたころだが、オープンダイアローグは、符合するところが多いものと見えた。どちらも、「傾聴」が、重要なキーワードとなるものだ。

 私は、若いころから心理学、特に精神分析に大きな関心があって、それなりに本は読んできたものであるし、産業カウンセラーなる資格を、震災前に受講して、震災直後に認定を得たのも、そのあたりの長い関心によるものだ。そのうえに立って、「オープンダイアローグ」は凄い、その可能性は広く深い、と見とったということになる。

 さて、ヤーコ・セイックラは、こんなことを言っている。

 

「私自身はっと気づかされたのですね。それは、私は統合失調症の人々を「患者」とみなして接し、話してきたのではなかった、ということです。私は彼らを「患者」ではなく「人間」として接し、話しかけてきたのだ、と。」(ヤーコ 14ページ)

 

 患者、ではなくて、人間、だと。

 トム・アーンキルは、こう言う。

 

「彼女は自らがどのような治療を受けたのか、これまでとは異なった言葉を紡ぎながら、彼女はこのように話したのです。

『…なぜならそのとき医師は、私がどんな様子なのか、夫と家族に対して尋ねたのですが、本人である私自身には何も尋ねなかったのです。私はその場に存在していないようでした。しかし、いま現在、ここの医師と看護婦とは全くそんなことはありません』。」(トム 15ページ)

 

 これは、人間ではないものであったかのような彼女、たぶん「患者」というものでしかなかった彼女が、話の通じる「人間」となったということではないだろうか?

 オープンダイアローグとは、人間を人間として扱うというごく当然のことを実行しようとする方法に他ならないようだ。

 

 高木俊介氏は、日本でのオープンダイアローグの今後の進展について、以下のように述べる。

 

「まず、日本においてオープンダイアローグを展開するにあたって、課題となるのが日本の精神医療、とりわけ統合失調症のような重度の精神障害の治療に強固に根づいている病院システムの解体です。…日本では精神障害者(クライアント)は病院システムの中に取り込まれて、一貫して管理される立場に置かれてきました。一方、専門職はどうかというと医師を中心とするヒエラルキーが岩盤のように形成されています。」(高木75ページ)

 

 高木氏自身が医師である。これまでのご自身の活動を通じて、日本における医師のありかたを批判されているようである。医師を中心とした盤石の体制。健康保険という巨大なお金と、医師という専門資格の権威が結びついた日本の体制。日本の既成のシステム。

 オープンダイアローグは、この体制を揺るがす可能性を秘めている、ということになるのだろう。

 オーストラリアの例があげられている。

 

「しかし、フィンランドと異なり、オーストラリアの文化的コンテクストはかなり規則遵守に関して厳格で、規則をはみ出して運用するのが非常に厳しい社会なのです。」(トム 24ページ)

 

「オーストラリアのソーシャルワーカーは自分の国に戻り、施設長や上司を説得し、ソーシャルワーカーがクライアントの話を純粋に聴く時間を多くとれるように仕事配分をアレンジしてもらうことに成功したのです。/このことによって、間もなく驚くべき変化が起こりました。…「傾聴する」というオープンダイアローグの本質的な要素をひとつ持ち込んで育てることによって大きな成果をあげているのです。」(トム 24ページ)

 

 日本の盤石のように見える体制に、風穴が穿たれる日もやってくるのだろう。

 ところで、オープンダイアローグにとって、「傾聴」という言葉が、キーワードであることは言うまでもないことだが、それは、現在の社会で、広くさまざまな問題を解決するマジック・ワードということになるのではないか、と最近、つらつら思い始めているところである。

 「傾聴」するとは、受動の知、臨床の知を働かせようとする、そういう働きがうまく成り立つような場を確保しようとすることでもあろう。

 オープンダイアローグという方法は、中村雄二郎から鷲田清一に継承される臨床の哲学に裏打ちされているというふうに語っていいのかもしれない。



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