ものの本を面白く読む。憂さばらしや暇つぶしにということでなく、興味関心の中心にぐいぐいとせまるように面白い。
たとえば、社会学者の橋爪大三郎と大澤真幸の対談「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)での、大澤の発言。
「いわゆるグローバリゼーションというのは、ぼくらがここまで論じてきた『ふしぎなキリスト教』に由来する西洋文明が、それとは異なった宗教的な伝統を受け継ぐ文明や文化と、これまでになく深いレベルで交流したり、混じり合ったりするということです。
ここで、これまでの西洋化と異なっているのは、『西洋』に由来する『近代』にも限界や問題があることが、西洋自身にとっても、その外部にあって西洋を受け入れてきた人たちにとっても、明確に自覚されていることではないかと思いますね。環境問題やエネルギー問題にしても、あるいは民族や宗教の間の深刻な紛争や戦争にしても、あるいは資本主義が生み出した格差の問題にしても、西洋=近代の限界を示唆している。」(341ページ)
こういう言葉を引用して、私は何を語りたいか。まさしくここに引いたとおりのことを語りたいわけである。あるいは、ここに引いたことに興味を持った方には、この本全体を読んでほしい。
それ以上、何か私が付け加えるべきことというものはあるか?何もない、のではないか?
良き本を読んでいれば、私が何ごとか語る、何ごとか書くなどということは、不要なことだ。沈黙するに如くはない。「言葉の専門家」でありたいなどという若いころからの夢は無意味なことだ。社会の一隅にあって、大人しくつつましく生活を終えればよいことだ。
しかり、日本国の全体に、何ごとか訴えよう、何ごとか伝えよう、何ごとか貢献しようと考えれば、確かにその通りで、私ごときが語るべきことなどない。しかし、もっとごく狭い範囲に話を絞って、私の子どもたちやその同輩の若者たち、あるいは、身近な、私よりは本を読まないひとびとというふうに区切れば、先達の学者、作家諸兄の説を語り直すということは、それなりに意味を持ったものとしてよみがえる。
まあ、たとえば高校の教師として、とイメージすれば納得しやすいか。
さて、現在の身の回りの社会の様子、現代日本社会の問題点について、行き過ぎた競争社会、大きな格差、豊かな社会における貧困、苦行としての労働、いじめ、ぎくしゃくした職場。原発のこと。30年前の1980年代ころまでは、未来はもっと明るかった。科学や技術や社会福祉、あるいは政治の進展によって、社会はもっと改良されると信じていた。ところがどうか?
もうひとつ、最近読んだ本から引用する。内山節「『里』という思想」(新潮新書)。
「ところが、いまでは、私たちは、『進歩』という神話に管理された生き方に飽きてしまった。そのとき、『進歩』の犠牲になったものが次々にみえだした。環境、人間の思考力や技、知恵、人と人との結びつき、地域や家族…。そして労働。」(133ページ)
この本には、明示的にキリスト教という言葉は出てこない。しかし、たとえば「進歩」という神話という言葉は、キリスト教西洋の文化文明を踏まえたものであることは自明だ。
大澤にしても、内山にしても、現在の社会の問題をえぐり出し、未来にどう展開しょうかということを一所懸命考えている、その基本に変わりない。これは、私が好んで読む学者、作家たちに共通で、いや、「私が好む」という限定で、というよりは、いま、ちょっとでも真摯に学問しよう、ものことを考えようとする人々すべてに共通の問題意識だと言って間違いでないはずだ。
大澤は、具体的な解決策については、まだほとんど何も言っていないように思う。内山は、江戸時代以前からの日本古来の里、共同体のあり様に、解決策を求めている。私は、内山の語ることに深く共感しつつ、どこか一抹の違和感みたいなものも否定しきれないでいる。大澤のように、問題点をまず挙げ続けることのほうが、馴染みやすい態度とも思う。
もう一冊、最近読んだ本では、大塚信一「山口昌男の手紙」(トランスビュー)。山口昌男は、まさしく30年有余前、興奮しながら読んだ。「文化と両義性」、文化人類学、構造主義、中心と周縁、道化のこと。まさしく、時代を変えるトリックスターの登場であった。当時は、未来に希望を持っていた。(私自身、大学を出たばかりの若者だった。)
でも、良く考えてみると、山口昌男は、西洋キリスト文明、近代合理主義の進歩主義(これは、資本主義であろうと、共産主義であろうと同じ。)を主張していたわけではない。むしろ、当時からその限界を唱え、もっと違う理性やもっと違う文化のあり方を主張し始めたひとだった。
哲学、思想の世界は、30年前も今も基本的には何も変わっていない。というよりも、当時から、すでに時代を先取りして変わっていた。経済を中心とした社会が、いまだ変わりえず、いよいよ問題点を煮詰めてきてしまった、と私などは観じている。(ちなみに、当時変革された新しい学問の第一の学者は、レヴィ=ストロースであると言って、賛同してくれる人は多いと思う。)
哲学思想は変わったのに、社会は変えられなかった、というと、哲学の無力さの証しということにもなる。でも、これからどう変わっていくのか?
今こそ、哲学の出番、ではないか、とも言える。思想が導いていく文明の大転換の時期となった、とも言いたい。まあ、安易な結論は差し控えよう。アジテーションは、もう少し先にとっておこう。(その先とは、私の生きている間のことではないのかもしれない。)
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