登米市 劇団どんちょうの会第50回記念公演で
6月21日の金曜日、午前中に仙台に所用があった帰り、登米市迫町佐沼の登米祝祭劇場、水の里ホール小ホール、劇団どんちょうの会の50回記念公演「地べたっこさまやぁーい」を観てきた。
どんちょうの会は、佐沼を中心に旧登米郡、いまは、大同合併して登米市となったが、この地域で27年間、活動を続けて来られたようだ。
さねとうあきら原作の「ぼうぼうさまの嫁っこ」、そして「おこんじょうるり」の二本立て。ふじたあさやというひとの脚色が入っており、原作の原文通りというわけではないようだ。
実は、気仙沼演劇塾うを座でも、先日、壤晴彦さんがお出での際、この「おこんじょうるり」をテキストとしてお持ちになり、うを座の子どもたち、そして、大人のワークショップ参加者も読んでいたところだった。
昼間には、壤さんの朗読のステージもあり、私は仕事のシフトの都合で、聴けなかったが、笑って、最後には、泣けた、とみんなの話は聞かされていた。
先々週のうを座のレッスンは、私が、テキストの読み込みを担当し、事前には、さて、浄瑠璃とはなんだったかなど、ネットで検索などもして確認した。
浄瑠璃とは、三味線を伴奏に語り歌われる唄であるが、もともとは、仏教用語で、薬師如来のおわす東方の浄土のことである。薬師如来の薬師は、文字の如く、今で言う「薬剤師」、というよりは、広く「医者」のことで、ひとの体の病、心の病を癒してくれる仏様ということになろう。その浄土は、サファイアだったかエメラルドだったか「瑠璃」という宝石で覆われた厳かで美しい場所だとのこと。
「おこんじょうるり」の文章には、薬師如来のことも浄瑠璃浄土のこともひとつも出てこない、ということは、今夜書こうとしていることとは直接は関係がないので、ここでは、このくらいにしておく。
「おこんじょうるり」の主人公たる「イタコ」のばばさまは、村の外れに住む、目の見えない巫女である。まじないを唱えて占いをし、ひとの病を治す。しかし、相当高齢となって、ボケてきたのか、最近は、どうもうまくいかない。占いも当たらず、病の原因となるキツネを退治することもできない。その何ごともうまくいかない様が舞台の上で演じられれば、まさしく観客の笑いを誘う。
さて、人間には、自意識というものが備わっている。特に、素人役者には、必ず備わっていて、しかも、あからさまに観客から見える、というやっかいな代物だ。もちろん、自意識のない人間などはこの世に存在しないのだが、外から見て見えるのか見えないのか、が問題となる。
人間が、日常生活を送っている場合、普通は、あまり、問題にならない。たとえば、面接試験だとか、普段は会うことのない偉い人の面前に出るとか、片思いの好きなひとに会うとかいう局面で、自意識というものが表に出て、ひとを困らせる。舞台の上に立つとき、というのも、自意識が表だって意識される典型的な場合であることは論をまたないところだ。
なんだろう、この自意識というものが、いちばんの問題なのかもしれない。
喜劇で、ひとを笑わせようとする役者に、この自意識が絶え間なく見えてしまう場合がある。そのとき、観客は、笑うことができない。居心地悪く落ち着かない。自分をより良く見せようとか、より美しく見せようとか、装おうとか演じるとかいう意識に付随して見えてしまうもの。自信の無さ、の表れである場合もある。
一方で、見事な役者は、安心して見ていられるし、安心して笑うことができる。
この夜、イタコのばばさまには、安心して笑わせてもらえた。
腰が据わっている、というのだろうか。激しく動いているのだが、動じていない、というのだろうか。走ったり、転んだり、腰を曲げて拝んだり、お祓いの棒を振ったりしていても、体の軸がしっかりして見える。体が、ふわふわと無駄に揺れていることがない。
台詞も、自分の言葉として発せられる。腹の底から、確かな声で発せられる。
自分の中で、上澄みだけの美しい声を使おう、などとしていない。全人格的な声を出している。装いだけのおどけた声を出すこともない。
見事だった。舞台を存分に楽しませていただいた。
この女優は、菅原恵子さんという。会場でいただいた資料によれば、「27年前」には、「東京在住で、船越栄一郎氏が主宰する劇団の一員」であられたそうだ。プロの劇団にいたからどうこうではない。この日の、この舞台上での存在が見事だったということだ。
もちろん、この日、菅原さんだけが優れていたとかいうことではない。劇団としてのパフォーマンス全体を楽しませていただいた。年に2回も公演を打つというというのは、ちょっとやそっとのことではない。
6月21日の金曜日、午前中に仙台に所用があった帰り、登米市迫町佐沼の登米祝祭劇場、水の里ホール小ホール、劇団どんちょうの会の50回記念公演「地べたっこさまやぁーい」を観てきた。
どんちょうの会は、佐沼を中心に旧登米郡、いまは、大同合併して登米市となったが、この地域で27年間、活動を続けて来られたようだ。
さねとうあきら原作の「ぼうぼうさまの嫁っこ」、そして「おこんじょうるり」の二本立て。ふじたあさやというひとの脚色が入っており、原作の原文通りというわけではないようだ。
実は、気仙沼演劇塾うを座でも、先日、壤晴彦さんがお出での際、この「おこんじょうるり」をテキストとしてお持ちになり、うを座の子どもたち、そして、大人のワークショップ参加者も読んでいたところだった。
昼間には、壤さんの朗読のステージもあり、私は仕事のシフトの都合で、聴けなかったが、笑って、最後には、泣けた、とみんなの話は聞かされていた。
先々週のうを座のレッスンは、私が、テキストの読み込みを担当し、事前には、さて、浄瑠璃とはなんだったかなど、ネットで検索などもして確認した。
浄瑠璃とは、三味線を伴奏に語り歌われる唄であるが、もともとは、仏教用語で、薬師如来のおわす東方の浄土のことである。薬師如来の薬師は、文字の如く、今で言う「薬剤師」、というよりは、広く「医者」のことで、ひとの体の病、心の病を癒してくれる仏様ということになろう。その浄土は、サファイアだったかエメラルドだったか「瑠璃」という宝石で覆われた厳かで美しい場所だとのこと。
「おこんじょうるり」の文章には、薬師如来のことも浄瑠璃浄土のこともひとつも出てこない、ということは、今夜書こうとしていることとは直接は関係がないので、ここでは、このくらいにしておく。
「おこんじょうるり」の主人公たる「イタコ」のばばさまは、村の外れに住む、目の見えない巫女である。まじないを唱えて占いをし、ひとの病を治す。しかし、相当高齢となって、ボケてきたのか、最近は、どうもうまくいかない。占いも当たらず、病の原因となるキツネを退治することもできない。その何ごともうまくいかない様が舞台の上で演じられれば、まさしく観客の笑いを誘う。
さて、人間には、自意識というものが備わっている。特に、素人役者には、必ず備わっていて、しかも、あからさまに観客から見える、というやっかいな代物だ。もちろん、自意識のない人間などはこの世に存在しないのだが、外から見て見えるのか見えないのか、が問題となる。
人間が、日常生活を送っている場合、普通は、あまり、問題にならない。たとえば、面接試験だとか、普段は会うことのない偉い人の面前に出るとか、片思いの好きなひとに会うとかいう局面で、自意識というものが表に出て、ひとを困らせる。舞台の上に立つとき、というのも、自意識が表だって意識される典型的な場合であることは論をまたないところだ。
なんだろう、この自意識というものが、いちばんの問題なのかもしれない。
喜劇で、ひとを笑わせようとする役者に、この自意識が絶え間なく見えてしまう場合がある。そのとき、観客は、笑うことができない。居心地悪く落ち着かない。自分をより良く見せようとか、より美しく見せようとか、装おうとか演じるとかいう意識に付随して見えてしまうもの。自信の無さ、の表れである場合もある。
一方で、見事な役者は、安心して見ていられるし、安心して笑うことができる。
この夜、イタコのばばさまには、安心して笑わせてもらえた。
腰が据わっている、というのだろうか。激しく動いているのだが、動じていない、というのだろうか。走ったり、転んだり、腰を曲げて拝んだり、お祓いの棒を振ったりしていても、体の軸がしっかりして見える。体が、ふわふわと無駄に揺れていることがない。
台詞も、自分の言葉として発せられる。腹の底から、確かな声で発せられる。
自分の中で、上澄みだけの美しい声を使おう、などとしていない。全人格的な声を出している。装いだけのおどけた声を出すこともない。
見事だった。舞台を存分に楽しませていただいた。
この女優は、菅原恵子さんという。会場でいただいた資料によれば、「27年前」には、「東京在住で、船越栄一郎氏が主宰する劇団の一員」であられたそうだ。プロの劇団にいたからどうこうではない。この日の、この舞台上での存在が見事だったということだ。
もちろん、この日、菅原さんだけが優れていたとかいうことではない。劇団としてのパフォーマンス全体を楽しませていただいた。年に2回も公演を打つというというのは、ちょっとやそっとのことではない。
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