ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

斎藤幸平・編 未来への大分岐 集英社新書

2020-03-26 21:17:36 | エッセイ
 著者としては、マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソンの3名の名が上がっている。
内容的には、斎藤氏と、この3名との対談である。
 冒頭はマイケル・ハートとの対談。
 マイケル・ハートは、アントニオ・ネグリとの共著『〈帝国〉』で高名な政治哲学者。アメリカのデューク大学教授とのことである。そうか、アメリカの人だったか。ネグリとハートの著書は、前に一冊読んでいる、と思ったら、ネグリの単著『さらば“近代民主主義”』という本であった。この二人は、当時『〈帝国〉』から始まって、日本でも相応に注目を集めていた。
 それ以降、日本では洋物の思想家はあんまり注目を集めることがなくなっているような気がする。
 あ、トマ・ピケティがいたか。結構分厚いので読んでいないが。ちなみに本吉図書館時代に選書して、司書に買ってもらった。相応に関心を持たれた書物ではあったはずだ。

〈第一部 マイケル・ハート〉
 さて、第一部、マイケル・ハートに、斎藤氏がこう語りかけるところから対談は始まる。

「斎藤 時代の大きな転換点にいる今、あなたと議論できる機会に恵まれて、とてもうれしく思っています。アントニオ・ネグリと共に、世に問うた名著『〈帝国〉』がまさにそうなのですが、危機の時代にあっても「Think Big」、つまり大きなスケールで思考し、行動するよう人々に呼びかけている思想家があなただからです。」(16ページ)

 革命を起こすなどというような、時代を、社会を大きく変えていこうとする「大きな物語」というのは、最近は流行らない、ということになっているはずだ。そういう中で、斎藤氏は、あえて大きなスケールで問題提起をしようとする。

「斎藤 議論の入り口として、「資本主義の危機」という問題を概観していきたいと思います。」(17ページ)

 2008年のリーマン・ショック以降のアメリカや日本を含む成長トレンドについての図表を示しつつ、

「MH(マイケル・ハート) 資本主義が行き詰っていることは、間違いないですね。
 斎藤 さらに、世界経済の長期停滞と並行する形で、先進国の中間層が没落し、経済格差が深刻化している。ウォール街オキュパイ(占拠)運動で有名になった「九九%vs.一%」というスローガンが人々の心をつかんだのは、その深刻さの現れでしょう。」(18ページ)

 資本主義が行き詰っている、という。
 世の富の多くを、人口で1%の富裕層が握り、残余を、それ以外の99%の大衆が分け合う、というような、そのほとんどを貧困が覆ってしまったような社会。質実ながら健全に暮らすことができる中間層が、どんどん失われていくような社会。これは、資本主義が崩壊しつつある徴しであるという。

「MH 1970年代後半に登場し、その後、世界中を席巻した新自由主義ですが、今やその矛盾が露わとなり、批判が多くあつまって人々の合意は得にくくなっています。」(20ページ)

 国家の無用な介入を退けることによって、資本主義崩壊を食い止めると期待された新自由主義であるが、いま、その矛盾があきらかになってしまった。新自由主義ではない道が目指されなければならない。
 マイケル・ハートは、21世紀のコミュニズムが目指されなければならないと主張するようである。社会民主主義的な小手先の改良では追い付かないし、既存の国家に頼ってもうまくいかない。
 その際、コモン、とか、マルチチュードという言葉がキーワードになる。

「MH 〈コモン〉とは、民主的に共有されて管理される社会的な富のことです。」(63ページ)

 「民主的に共有されて管理される社会的な富」、か。

「斎藤 …民主的な方法で〈コモン〉を管理するという経験が、民主的な政治と制度のための基礎となるわけですが、〈コモン〉(common)の自主的管理を基礎とした民主的な社会というのは、実のところ〈コミュニズム〉(communism)に他ならないわけです。」(66ページ)

 ただし、ここでいうコミュニズムというのは、昔のソ連のようなものでは全くないという。
 ところで、辞書を引いてみると、コモン(common)というのは、共通の、とか、公共のとか、普通の、とか出てくるが、共有地とか、イギリスの議会の下院のことだったり、コモンウェルス(commonwealth)というと、直訳すれば「公共の富」みたいになるが、実は「共和国」のことであり、フランス語でコミューン(commune)といえば、基礎自治体(日本で言えば市町村)になる。1871年のパリ・コミューンというのが有名で、1789年のフランス革命の後、ナポレオンの帝政や王政復古などを経て第三共和政の開始で落ち着くまでのなんだかんだの経過の中で、パリの民衆による解放区であり、革命政府として理想化されたりもしているが、自治体としてのパリ市ということでもある。現在でも、パリ市は、パリ・コミューンということのようだ。Commune de Paris、か。
 「民主的に共有されて管理される社会的な富」というのは、地域の市民が集まって、協議して決定して社会的な資源を管理運営するということで、これは、よく考えると、自治体に他ならない。まあ、市町村である。いま、現に日本にも存在する市町村というよりは、理想的に、より民主的に運営される市町村のことだろうが、コモンというのは、つまりは、市町村のことである。市町村より狭い範囲の自治区を想定すべきであるともいわれるかもしれないが、それは些末な議論となる。
 いま流行りのコミュニティ(community)というのも、コモンとか、コミューンとかいうのと同じ、市民の共同体である。もちろん、いま、日本でコミュニティ論というのは、左派的なコミュニズムとは別のものとして議論されているわけで、文脈の違いはある。日本の明治以前からの歴史民俗を踏まえたコミュニティと、明治以降に西洋から輸入された思想としてのコミュニズムの違いは歴然とあるわけで、安易に一緒くたにしてはいけないのだろうが、大枠で言ったとき、原理論的には同じことを目指しているのだと、言うべきなのではないだろうか?
 市民の市民による市民のための統治である。民衆の民衆による民衆のための統治である。住民の住民による住民のための統治である。ひっくるめて言って、人間の人間による人間のための統治である。為政者のための統治ではない。専制的権力者のための統治ではない。まして、機械による機械のための統治ではありえない。そして、マネーによるマネーのための統治であってもならない。
 もっとも、コミュニティというと、農山村の農民の集落がまずはイメージされたり、都市的なコミュニティならサラリーマン世帯とか、等質の人間集団とイメージされることが多いだろう。しかし、よく見ると、コミュニティは、多種多様な生活人の集まりである。多様性に満ちた社会である。工場労働者を中心としたプロレタリアートが多数を占める、などという状況もない。
 ネグリとハートが唱えたマルチチュードというのは、マルチな人びとというか、多様な属性を持つ大衆のことであろう。革命の、社会変革の主体は、均質なプロレタリアートではない、と。

「MH …ネグリと私がマルチチュードという概念を使ってやりたかったのは、社会変革の主体を多様なものとして捉え直すことです。ただし、外在的に捉えた多様性ではありません。その内部にさまざまな差異を包含している主体性を考えたかったのです。」(94ページ)

 ネグリとハートも、ごくまともなことを言っているわけである。まとも、というか、ごくふつうの、というか、だれが考えてもそうなったほうがいいというようなことを言っているに過ぎない。
 私が思うに、それはコミュニズムといってもいいのだが、コミュニズムと言わなくてもいい。地方分権の推進というのは、まさしくそういうことだし、コミュニティ・デザイン、みたいな言い方からアプローチしていってもいいわけである。
 そのうえで、人間らしい統治が理想的に実現するために、社会的な問題が具体的にどんな道筋で解決していくのかというところが問題となる。これは、もちろん、そうやすやすと解答が見い出せるものではない、のだと思う。
 ここから先こそが、論点となるべきところなのだ、と世の識者は言うだろう。それはその通りである。しかし、ここまでの基本線が押さえられていない議論というのも、世にずいぶんと流布してしまっているように思う。

〈第2部 マルクス・ガブリエル〉
 第2部は、マルクス・ガブリエル。ドイツのボン大学の哲学の教授とのこと。1980年生まれ、ちょうど40歳になるところのようである。表紙カバーには、マルクス・ガブリエルの文字が大きく配置され、写真もひとり大きい。カバーの扱いとしては、この書物は、この人の単著と見まがうように作られている。

「MG(マルクス・ガブリエル) …哲学は本来役に立つのです。」(133ページ)

 私も、最近、哲学は役に立つと語っているところだ。
 最近、基本的人権だとか、民主主義だとかがないがしろにされ、人類の普遍的、絶対的な価値などではないという、相対主義的な考えが横行しているという。

「斎藤 相対主義に陥らない社会批判の仕方というものにはどういった方法があるのでしょうか。
MG 端的に言えば、「自明なものの政治」が必要です。それは、つまりエビデンス(証拠)に価値を置く政治です。エビデンスと言えば、エビデンスベースな医療(科学的根拠に基づく医療)が重要だと言ったりしますよね。だったら、エビデンスに基づく政治を求めたっていい。自明性の政治を求めるべきなのです。」(141ページ)

 エビデンス。
 ああ、エビデンス、か。
 どうも、最近、エビデンスという言葉が嫌いである。
 世の人びとは、エビデンス、エビデンスと騒ぎ立て、大切にされるべき常識がないがしろにされている、というように感じている。
 特に、医療の世界でとやかく求められるエビデンスか。実験室での仮説の検証がないと、エビデンスがないと言われる。いや、化学など、自然科学の実験においては、まさしく、その通りで、エビデンスなしには何も言えないだろう。
 しかし、このところ医療の世界でも、実験の結果を踏まえたエビデンスばかりが重視されるのは、どうも違う、ということになっているようだ。人体で実験することの倫理的な問題もさることながら、人間というのは意識を持った再帰的な存在、というか、人間は行われることの結果について自ら意識してしまう存在で、それが実験の結果を左右する場合もあり、厳密な実験と呼ばれるに必要な条件が整わない場合が多すぎる、ということらしい。そういう厳密な実験なしでも、確かに効果があるというべき事態があるという。
 経済学など人文科学の分野でのエビデンス、というのも、いろいろ議論すべきところがあるようである。経済の動きとか、社会の動きとか、関係するファクターが多すぎ、複雑に絡み合っていて、実験室のように条件を整えるというのは、無理な場合がほとんどである。予測し得ない与件が多すぎる。
 など、考えているうち、どうもマルクス・ガブリエル氏の言うエビデンスというのは、科学的な実験によるエビデンスとは、また、違うものを指していると言うべきではないか、と思えてきた。
 人間の曇りない目で見た直感的な事実であったり、常識のことを言っているのではないか、と。もちろん、ここでの目というのは比喩であって、即物的な感覚器官としての目をも含む、人間の認識力のことである。
 デカルト的な明晰判明知。科学的な実験を経た証拠をもその一部として含むもっと広い意味でのエビデンス。
 そうそう、私は、行き過ぎた新自由主義的な世界観において、奇形的に発展してしまった科学技術の幻想増長の推進力として、なのか、結果としてなのか、エビデンス偏重主義がある、みたいな偏見を持ってしまっているわけである。
 ここでのエビデンスというのは、デカルトが唱えた明晰判明知の時点まで遡ったような、人類の素直な認識力のことだと思えばよい。
 で、相対主義とはどういうことだろうか。

「斎藤 人権や民主主義など、私たちが自明だと考える価値が、時代や場所が異なる状況下においては、妥当性を失うという相対主義者の主張は正当化されるべきでしょうか?
MG もちろん、正当化などできません!」(145ページ)

「MG 人権とは、人間とは何かという概念の自己規定から導き出される普遍的な価値であり、それは文化的・時代的な価値観によって左右されるものではありません。多様な真理が存在するのではない。ユダヤ教・キリスト教的な西洋の価値とは異なる、ロシアや中国の価値があるわけではないのです。
 要するに「ポスト真実」などという、真実がいくつも存在するという相対主義の見方は、事実に直面するのを避けるための言い訳にすぎません。
斎藤 相対主義は、本当にシニカルですよね。相対主義に従えば、他者と互いに理解しあうことなどはできない、それぞれ、分断された世界に住んでいるのだということになる。相対主義者は、「他者性」(文化・価値観の違い、よその伝統など)をつくり上げることによって、自分がみたいものだけを見ています。」(147ページ)
 
 この書物で、相対主義者の代表として取り上げられるのが、ロシアのプーチン大統領である。「ポスト・トゥルース」、「ポスト真実」といえば、もちろん、トランプ大統領も念頭にあるわけである。
 斎藤氏は、ハンナ・アーレントを引き、相対主義への警鐘を、改めて、鳴らす。

「斎藤 …全体主義と嘘の密接な関係性を指摘しているハンナ・アーレント…は『全体主義の起源』の中で、こう記しています。

 全体主義の運動は、現実そのものよりも人間の心が必要とするものに適した、一貫性のある嘘を召喚する。その嘘の世界において、根無し草である大衆は、多大な想像力によって、現実の生活や現実の経験が人間の期待に与える、終わりのない衝撃を免れ、自分の家にいるかのようにくつろぐことができるのである。

このアーレントの言葉によれば、人びとの心が求める心地よい嘘は、現実を架空の世界に置きかえてしまうパワーをもっています。…嘘は、客観的事実だけではなく、道徳や人権への意識も弱体化させます。嘘が公共圏に広がると、民主主義の条件は破壊され、全体主義の運動の台頭につながるのです。」(155ページ)

 マルクス・ガブリエル氏と斎藤氏は、1968年の、学生たちによる五月革命以来のポストモダンの思潮を、批判的に振り返る。(五月革命とは、と書き出すと、もっと長くなってしまうので、それぞれお調べください。ただ、1956年生まれの私たちは、中学生になったころのその五月革命に共感し、その全き肯定のなかで生きてきた、ということは言っておこう)

「斎藤 …あなたの戦略のひとつは、「ポストモダニズム」を批判することです。
もちろん、ポストモダニズムにも功績はあり、近代のダーク・サイドを指摘し得る役割を果たしました。近代の普遍的理念の下に隠された、欧州中心主義を暴いたわけですが、実際、奴隷貿易、先住民族の大量虐殺、天然資源の奪取と言ったダーク・サイドが近代にはあったのです。
 これが近代化の否定的な面です。言い換えれば、こうした否定的な面は普遍主義の下に隠された問題を示しています。普遍性が暗に想定していたのは、白人で、異性愛者で、男声である人たちの価値観だったというわけです。…
 しかし、五月革命から五〇年経っても、私たちは解放されていません。むしろ、すべてがばらばらになった「ポスト真実」の社会で、私たちは途方にくれていて、普遍的なものなど、もうどこにも存在しないように感じられます。」(163ページ)

 二人は、ポストモダニズムの流れの中で、社会構築主義なるものを批判する。

「斎藤 社会構築主義を大雑把にまとめれば、すべてのものは、社会的に構成されたものであるという主張です。人種、ジェンダー、エスニシティの歴史性と社会性を開示するこの戦略は、社会変革の可能性を切り開きました。」(169ページ)

「MG 社会構築主義には多くの問題があります。…社会的事実を人間がつくり出した幻覚のように捉えています。…
斉藤 すべては人々の社会的行為が生み出す幻覚だと。
MG もちろん、それは間違っていますけどね。社会的なものの論理は、幻覚ではありません。
 社会構築主義者は、社会的なものの抵抗について誤解しています。社会的なものはすべて実在的なものですが、実在的なものは何であれ、理論化に抵抗するのです。
斉藤 実際、私たちは日々生活しているなかで、いろいろなことが思いどおりにならずに、悩んだりするわけですが、それこそがいろいろなものが実在していることの証であり、その実在的なものの抵抗力は理論によって解釈したところで、なくなりません。」(170ページ)

「MG …社会構築主義は、人々から現実を見る力と問題に対応する力をそいでしまうのです。」(173ページ)

 社会構築主義について裁断のし過ぎ、とも言える。すべてが社会的に構築されたものだと主張するというのは、かといって、人間の実在そのものを否定しているわけでもないだろう。社会的に構築されたものが、幻覚だなどとは言っていないはずである。
 国家や法律、慣習、その他社会的な制度全般は、社会的に構築されてきたものであり、つまり、全人類として、ということもあるだろうし、民族単位であったり、もっと小さな地域に属する人々であったり、いずれにしても人間が歴史的に形成してきたものであることは間違いのないところである。人間以外のどこからか、完成したものが与えられたなどというものではない。
 社会的なものが、人間の外に厳然と存在しているもので、それに変更を加えるなど、全くできないことなのだ、みたいな思い込みに対して、そうではないよ、変革可能なものなのだよ、とアンチテーゼを唱えた、そういうものであるはずである。社会は変革可能なものである、と、ひとびとに勇気を与えるものではあるはずである。
 彼らも、「社会変革の可能性を切り開」いた、と評価はしているわけである。
 しかし、社会変革が、全く恣意的なものであっていいわけではない。ひとの命を大切にしないものであってはならない。
 何もかもが変革可能だというわけではない。現実的にというか、存在論的に言ってもそうだし、倫理的に言ってもそうだ。
 厳然としたものの大切さがある。それは全くその通りとしか言いようがない。

「斎藤 …あなたは「新実在論」を現在の相対主義的状況の治療法として提唱しています。…あなたの「新しい」実在論は、これまでの実在論とどのように違うのですか?…
MG 古い方の実在論は、人間の認識能力、精神、意識から現実の独立性を保証しようとしていますが、新実在論はその保証だけを目指す議論ではありません。
 新実在論は「事実」と「事実についての私たちの知識」の新しい捉え方を提唱しています。…
斎藤 人間の意識から独立したものだけが存在していると考える、かつての実在論によって立てば、人間なしには成立しない人権や道徳は実在しないことになってしまう。でも、それでは、日常の経験を十分に擁護できませんね。」(175ページ)

 ここで実在するものとは、精神と物質と切り分けた時の物質のみを指しているわけではない。
 物質、というと、テーブルの木材とか、鉄の塊とか、冷たい個体をイメージしてしまうが、実際のところ、物質というのは、エネルギー込みのものである。物理学で、物質は、粒子なのか、波動なのか確定できない、みたいなことも言うようであるが、木材も燃やせば熱く燃える。エネルギーが放出される。
 もちろん、エネルギーと精神というのは、また別物で、安易に一緒にすべきではないが、物質で構成された肉体は、精神込みのものである。デカルト的な二元論で、精神と物質を切り分けて、それが、脳の中心部の松果体で結びつくなどというおかしな説明をする必要は全くなくて、人間を含む生き物とは、物質と運動、肉体とその行動、肉体と意識、肉体と精神の不可分の合一なのである。
 自然の植物も実在するし、人間が作った机などの製作物も実在するし、法律、慣習などの制度も実在する、基本的人権や道徳も実在するというわけである。
 これもまた、ごくまっとうな議論というべきであろう。
 しかし、だからと言って、社会構成主義が全くの間違いだ、というわけでもない。

〈第3部 ポール・メイソン〉
 第3部は、経済ジャーナリストのポール・メイソン、1960年、イギリスのマンチェスター生まれのようである。

「…野心作『ポストキャピタリズム』で、資本主義は情報テクノロジーによって崩壊すると主張し、次なる経済社会への移行を大胆に予言」

したと紹介されている。

 情報テクノロジーの進展によって、モノを創り出すことが利潤を生まなくなるということで音楽制作も、ネットで簡単にダウンロードできてしまい、レコードだとかCDだとかの工場生産物を作る必要性がなくなってしまっていることなど例に挙げている。
 いま、資本主義は、無理やり延命措置を施されている状態で、そんな無理は止めてしまった方がいい。
 金銭的な価値によらない経済。生活、生存に必要なモノが、貨幣を媒介にしないで流通可能であるような社会。
 そんな社会は実現可能であるというか、むしろ、そうなることが必然だという議論。
 興味深いものである、そうなったらどんなにいいことだろうか、と思う。
 と、だいぶ長くなってしまったので、第3部の紹介は、こんなところにとどめておく。

〈おわりに――Think Big! マイケル・ハートとの対話の本当の終わり〉
 第1部には収録しなかった、マイケル・ハートのほんとうの締めくくりの言葉があるという。

「振り返れば、一九八九年以降、左派と右派を隔てる壁はなくなったのだと主張する思想家が数多く現れました。ポスト冷戦という状況への応答としては、そうした発言も重要だったかもしれません。しかし、私からすれば、だからといって、この時代に左派の意味が失われてしまうわけではないのです。
 自由、平等、連帯、そして民主主義――私にとって左派が意味するのは、やはりこういった一連の言葉であり、こうした言葉のもつ可能性を問いつづけなくてはなりません。」(337ページ)

 左派であろうが、左派でなかろうが、大切な言葉に違いない、と私は考える。

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