ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

山田詠美 つみびと 中央公論新社

2020-04-03 13:24:05 | エッセイ
 山田詠美である。
 山田詠美は、私にとって数少ない読もうと思える小説家である。見開きひとつに、必ず名文がひとつ以上出現する、と言ったりしているが、いつも唸らされる名文家である。
 さて、今回は、つみびと。
 巻末の参考文献に3編掲げられている1冊目が、『ルポ虐待――大阪二児置き去り死事件』(杉山春、ちくま新書)であり、後の二つは、殺人犯についてと女子刑務所についてのルポルタージュである。
 重い。重すぎる。
 ところで、小説って何なんだろう?
 よく考えると、よくわからない。何かを実際的に解決してくれるわけではない。
 実用書のように、読んですぐに実の用に役立つというふうな役立ち方はしない、ものとされているはずである。どこかを大きく迂回しながら、いつのまにかどこかで人生の役に立っている、というふうな仕方で役に立つものとされているはずである。
 でも、読んで、多少なりとも何かは変わる、はずである。
 ひょっとすると、この小説は、直接に役に立つ、のかもしれない。この本を読むと、多少、というところを超えて、何かが変わるかもしれない。
 この本を読むことで、児童虐待が減るかもしれない。
 この本を読むことで、児童虐待をしてしまった親の周りにいる人が、その親に少しだけ優しくより添うことができるようになるかもしれない。
 その親を、つみびととして断罪するだけでは済まない何ごとかを感じ取ることができるようになるかもしれない。

 表紙をめくって目次の裏に、主な登場人物の家系図がある。4代にわたる家系図である。
 4代にわたる大河小説である、というわけではない。しかし、虐待ということを語るためには、事件を起こした側と被害を受けた側の当事者、その親子だけを描いたのでは足りない、ということなのだろう。少なくとも当事者である親の親とそのまた親、4世代にわたる家族の有り様が描かれなければならない。世代間の連鎖が描かれなければならない。事件を起こしたものは、その前に、表立って事件とは呼ばれない程度のものではあったかもしれないが、ある状況を被ったものであった、という連鎖。

「私の娘は、その頃、日本じゅうの人々から鬼と呼ばれていた。鬼母、と。この呼び名が、実際のところ、いつ頃から使われていたのかは不明だが、まさに娘のためにある言葉だと多くの人は怒りと共に深く頷いたことだろう。彼女は、幼い二人の子らを狭いマンションの一室に置き去りにして、自分は遊び呆けた。そして、真夏の灼熱地獄の中、小さき者たちは、飢えと渇きで死んでいった。この児童虐待死事件の被告となったのは、笹谷蓮音(ささやはすね)、当時23歳。私の娘。」(5ページ)

と、この小説は語りだされる。〈母・琴音〉自身の語りとして。
 小説の始まりにあたって必要な情報が、ここで、過不足なく提示される。淡々と、というべきかもしれない。
 母・琴音は、娘・蓮音のことだけでなく、自らの母と父のこと、そして現在の自分のことも語る
 2番目の節は、〈小さき者たち〉の視点で、小説の語り手が語る。小さき者たちとは、娘・蓮音の子らである。

「むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがすんでいました。
 そういう始まりのお話を、桃太は、ずっと忘れることはありませんでした。それは、大好きな母の蓮音が、寝る前にいつも読んでくれたお話だったからです。
 これはね、ママが小さい頃にも、そして、桃太のおばあちゃんが小さい頃にも読まれて来たお話なんだよ。そう母は言って、くり返しくり返し読むのでした。」(20ページ)

 だれでも、幼いころに母親に聞かされたことのある昔ばなし。もちろん、この私も、母に読んできかされた。大人になった今も、その記憶が呼び戻される。そして、この幼き者、桃太の名づけの由来でもある桃太郎。「ずっと忘れることは」なかった、そのずっと、というのは、いつからいつまでのことなのか。大人になるまでのずっと、ではありえない、残酷にも中断される「ずっと」。
ここを読むだけで、涙が出てくる。見開きで一回、必ず泣かされる小説である。
 いや、そういうと、なにか誤解されるな。
 お涙頂戴の人情悲劇ではない。
 この泣かされる事態は何と表現したらいいのだろう。
 うっ、とこみ上げて、しかし重くなり、いったん本を置いてしまう。
 物語を読み進める方へ引きつけられるのに、読み続けられず、表紙を閉じてしまう。
 3番目の節は、〈娘・蓮音〉の視点での、語り手の語りである。刑務所に収容されたあとの回想。

「刑務所に移ってからしばらくは、混乱することに忙しかった。頭の中は、常に渦を巻いているような状態で、隙間なんてなかった。思えば、蓮音の人生は、それまでも常に混乱していた。他者から混乱させられ、それが収束しそうになると、今度は自らを混乱の中に突き落として来た。」(27ページ)

 他者とは、まず、母・琴音であり、父である。母の行動によって、父の言動によって、蓮音は、混乱に叩き込まれる。自らを混乱の中に落とし込む、というのも、実のところ、自由な恣意で落とし込むわけではない。決してそんなことを望んでいるわけではないのに、望むはずなどないのに、そういう選択をなしてしまう。父や母によって、そういう行動をとらざるを得ない状況に追い込まれてしまったというべきである。幼いころからの、父と母の設定した環境によって。そして、母も、また、自由な恣意で、娘を落とし込んだわけではない。母自身の母と父によって、そうせざるを得ない状態に落とし込まれた。
 この小説では、蓮音の父、琴音の夫のことは描かれ、琴音の父のことは描かれるが、その系譜をさかのぼることはない。主要には、娘・蓮音、母・琴音そしてその母と3代の女系が軸に描かれる。
 蓮音は夫・音吉と出会い、いっときは幸福な結婚生活を送るが、音吉の家族との関係において、生活が狂わされていく。その家族とは、主要には、夫ではなく、また、義父でもない。義母、音吉の母である。
 普通の、常識的な家族の母、善意である母。恐らく意図した悪意はないに関わらず、息子の妻に対して、結果として悪をなしてしまう義母。
 ちょっと話が脱線するかもしれないが、この小説を読み進める私自身が、しばらく前までであれば、蓮音に寄り添い、その立場から状況を見て、義母を悪者に見立てていたはずである。しかし、いま、60歳を越えた年齢に至って、むしろ、義母の側に寄り添い、共感してしまうところがある。どうしてだろうか?この点は、いま、覚えとして記しておく。掘り下げるべきところとも思うが、また、のちの機会に。
 小さき者たち、桃太とその妹には、すでに希望はない。(ああ、しかし、短い生涯の間には、ささやかな希望(母が帰ってくるという)しかなかったのだ!)希望は永遠に失われてしまった。
 母・琴音には、希望がある。自ら手を下すことはなかったし、何よりも、寄り添ってくれる年長の男が存在する。娘の事件により、絶望している、のではあるが、ささやかな希望がある。
 娘・蓮音にとってはどうだろうか?もちろん、この小説の中の世界で、深い絶望は描かれているが、希望が描かれることはない。描かれようはずはない。
 しかし、刑務所の面会室で、母と娘は、鏡のようなガラスを隔てて向かい合い、黙りがちにどうでもいいような話題を少しだけ交わした後、別れ際、娘は、母親にある言葉を口に出して言ってみるように促す。はじめ、母は、何のことを言っているのかつかめないが、やがて、気づき、そのまま、口に出す。
 その言葉は…
 物語の、本当に最後となるその言葉を、ここに記すことは控えておく。
 今ここに記すために、読み返して、また、泣いてしまった。

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