ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

橘玲 不条理な会社人生から自由になる方法 働き方2.0vs4.0 PHP文庫

2022-09-22 20:54:19 | エッセイ
 橘玲氏は、1959年生まれの作家。2002年に国際金融小説「マネーロンダリング」をものしてデビューされたという。この書物を読むと、氏は、「真のリベラリスト」であるのかもしれないが、いわゆる日本のリベラル派とは一線を画しているようである。(ここで、自らリベラリストと称してはいない。)
 なかなか面白い書物であって、いろいろヒントをもらえた。いつもながら、今回も長文となってっしまった。

【BOBOS=ブルジョア+ボヘミアン】
 この書物で、最近のアメリカで流行っているという、BOBOSという言葉が紹介されている。ブルジョアとボヘミアンを組み合わせた言葉らしい。
専門職のクリエイティブクラス、つまり、創造力溢れた能力を発揮する専門家ということだろうが、コンサルタントやプログラマー、エンジニアなど高い専門性をもつ人々であり、まさしく「不条理な会社人生から自由になる」ことのできた人々である。
 アメリカ社会の頂点にいるのは、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツ、グーグルやアマゾン、フェイスブックの創業者など、起業によって莫大な富を手にしたごく少数の資本家であるが、そのすぐ下に位置するクラスということになる。

「クリエイティブクラスはニューリッチ(新富裕層)で、BOBOS(ボボズ)とも呼ばれます。ブルジョア(Bourgeois)とボヘミアン(Bohemian)を組み合わせた造語で…典型的なBOBOSは夫婦とも高学歴で、リベラルな都市かその郊外に住み、経済的に恵まれてはいるもののブルジョアのような華美な暮らしを軽蔑し、かといってヒッピーのように体制に反抗するわけでもなく、最先端のハイテク技術に囲まれながら自然で素朴なものに最高の価値を見出すとされています。」(216ページ)

 なるほど、このBOBOSの暮らしは、悪くないだろう。現代社会において、環境への負荷を最低限に減らしつつ不具合のない暮らしを継続できるのであれば何も言うことはない。
 だが、ここで、ちょっとおや、と思うところが生じる。
 なんというか、高学歴だとか、経済的に恵まれだとか、最先端のハイテク技術だとかを多少割り引いて、まあまあそこそこのところまで話を広げれば、現在の日本の大方のひとびとの暮らしは、その範疇に収まってくるのではないか?そこそこ便利な家庭生活を送り、華美を求めず、自然で素朴なものに価値を見出す。そこそこ生活を楽しんでいる。
 もちろん、過酷な競争にさらされる会社生活、役所生活や、経済的困窮などを抱える一定の層が存在すことは見落としてはいけないことだが、一定の割合でそこそこの生活をおくれている人々が存在することは確かであり、あるいは、各家庭ごとに過酷な側面と安穏な側面とを併せ持っていると言ったほうがいいのか。
 現在、定年後の私がなんとか送れている日々の暮らしというのも、まさしくそんなものなのではないだろうか?
 長年一定の稼ぎがあり、結果、年金をもらって、定年後も週4日勤務の、とある”相談員“という仕事で薄給を得て暮らしている。休日には、自分でコーヒーなど淹れてゆっくりと楽しんでいる。
 私に限らず、今の日本で、特に年金をもらいはじめた世代においては、上で言うBOBOS的な生活を送れているひとはけっこういるのではないか。(いや、全然質が違うぞ、という声も聞こえてきそうであるが。)
 実は、市役所勤めで50歳過ぎて管理職となり、1年間他団体に派遣ということで、単身赴任の時期があったが、単身赴任手当など含めてその年の年収は、ぎりぎり800万円を超えていた。そのときに、日本の年収上位10%が800万円だとか言う話があって、心底びっくりしたものである。おまえは、公務員で恵まれた側にいるのだ、と責められれば、確かにそういうことでもあるのかもしれない。

【バーベル経済あるいは「ウォール街を占拠せよ」】
 氏は、「ウォール街を占拠せよ」の標語に象徴される格差、分断の「バーベル経済」について、次のように語る。

「一部の富裕層と大多数の貧困層に社会が分裂していくことを「バーベル経済」といいます。…ただしこれは、「ウォール街を占拠せよ」の標語のような「1%の富裕層と99%の我々」というほど極端なものではありません。」(178ページ)

 ここから、アメリカのひとびとの暮らし向きについての統計の数字を挙げて、10%は、ミリオネア、そこそこの金持ちなのだという。日本を含む先進国でも事情は同じだと。
 ま、それはそうなのだろう。
 それに加えて、

「仮に10人のうち2人がミリオネア予備軍だとすると、「バーベル」の上は3人、下は7人ということになります。超格差社会のアメリカでもせいぜいが”We are the 70%“で、1%対99%」というような荒唐無稽なことにはならないのです。
バーバルの比重が3対7だとすると、それを5対5とか、7対3のような「格差のない社会」に変えていくことも大事でしょうが、より、重要なのは自分が「3」の側、すなわちバーベルの上のグループに入ることです。」(180ページ)

 私が思うに、1%であろうが、30%であろうが、それ以外の大多数が困窮しているという意味では同じなのではないだろうか。しかも、30%の内20%相当は、予備軍に過ぎず、言ってみればアメリカンドリームに騙されて踊らせられた人々でしかないかもしれないではないか。
 上位30%に入れ、というのは、なんというか、世の常識とか言って大学は最低限MARCH以上に入らなきゃとあくせく尻を叩かれる競争社会にどっぷり浸かったメンタリティに見える、というか。
 いかがなものだろう?
 それで、ひょっとすると、そんな競争などしなくても、プチBOBOS的な(似非BOBOSというべきか)、ほど良き暮らしができる可能性だってあるのかもしれない。

【人生100年時代の定年後あるいは「残酷な世界」】
 橘氏が定年後の暮らしについて語るところがある。

「人生100年時代には、原理的に、好きなこと、。得意なことをマネタイズして生きていくほかありません。もちろん、すべてのひとがこのようなことができるわけではありません。だから私は、これを「残酷な世界」と呼んでいます。」(232ページ)

 マネタイズなどというと、たいそうなことのようだが、何らかの方法でお金を稼いでいくということである。
 橘氏が「残酷な世界」というのは、上位30%に入らなきゃいけないという強迫観念と、一部のフィナンシャルプランナーが、老後に5千万円の蓄えが必要だなど主張したという脅迫めいたもの言いにおいてである。その後金融庁という公の機関が2千万円不足するという数字を出して社会問題になった。いずれにしても大きな金額である。
 しかし、橘氏は、「得意なことをマネタイズしていけば問題ない」と述べる。

「60歳の定年後も、専門性を活かして年収300万円の仕事があれば、70歳までの10年で3000万円、80歳まで…6000万円です。…生涯現役なら「問題」そのものがなくなってしまいます。」(235ページ)

 地方にいて、60歳過ぎて、300万円の仕事というとなかなかつらいものがあるが、まあ、私も、そこまではとても行かないが週4日のパートタイムの「相談員」の仕事にありついており、年金を併せてなんとか暮らしてはいる。
 この仕事は、現役時代の職務経験を活かした専門的な仕事とは言える。
 身の回りを見てみると、60歳になった、65歳になったからといって、すぐすべての仕事を止めて隠居、などというひとはそんなにいない。大方のひとは、何らかの仕事を継続している。年金が、退職金が切り下げられたからしょうがないと不平をいうこともあるわけだが、なんらかの仕事を続けることは、そんなに過酷なことでも残酷なことでもないに違いない。橘氏のいうように「得意なこと」を活かしていけるのであればなんの問題もないわけである。
 この書物では、なにか脅迫的なことがまず述べられるが、実際のところは、そんなに過酷なばかりではなく実現可能だということは言えるかもしれない。

【現代の若者の生き方、田舎のシェアハウス】
 こないだ、テレビの移住者の若者を紹介する番組で、田舎のシェアハウスに、数千円から1万円程度の家賃で暮らしながら、ネットを使ってリモートで、小さな商いをして暮らしている若者たちが紹介されていた。収入は多くて十数万円、少ないと3~4万円で何とか生活できているという。何らかの専門的な技能とは言えるようである。ウェブ・デザインとかなんとか。
 ひょっとすると、これは、ひとつの可能性かもしれない、とも思われる。ある意味BOBOSと呼ばれる暮らし方と一緒なんじゃないだろうか?
 本来のアメリカのクリエイティブクラスのBOBOSではなく、日本の定年後の年金+そこそこの稼働収入というのとも違う、最初から低収入でも成り立つ生き方である。
 上位30%のうちに入らなきゃなどという強迫観念から自由な生き方、ではあるだろう。
 ただし、ここで留意しておくべきは、多くの場合、田舎のシェアハウスが賃貸物件として流通するために、純粋民間のみの創意工夫とか、経済行為にまかせていたのではうまくいかないということである。市町村の役所、役場の移住施策、国の補助金なども活用した行政の関与が必要だということである。
 もちろん、この紹介された例では、現状、結婚して子供を持ってという暮らしが成り立つということは難しいかもしれないのだけれども。しかし、パートナーがどちらも働いていればいいのかもしれないし、そこで、子育て支援など行政による社会保障がきちんと機能していればなんとかなるのではないだろうか。

【リベラルとは?ネオリベとは?】
 リベラルといわゆるネオリベについて、文庫版まえがきで、橘氏は次のように記す。

「(日本でも)…ハラスメントが大きな社会問題になり、女性はもちろん、外国人や性的少数者など会社内のマイノリティに対する差別が許されなくなりました。…日本も世界も「リベラル化」の大きな潮流のなかにあることがますます明らかになりつつあります。…
 リベラリズムの根底にあるのは、…自由の相互性・普遍性です。現代社会では、この原理を否定する者は「差別主義者」のレッテルを貼られて社会的な地位を抹消(キャンセル)されますが、奇妙なことに、日本の労働市場ではいまだに堂々と「差別」が行われています。」。(3ページ)

 橘氏は世界のトレンドがリベラル化しているのは明らかであると語る。氏が主張するのは、日本のリベラル全般というよりは、旧来の雇用制度に固執する労働組合への批判という部分が強いのかもしれないが。

「本気で「差別のない働き方」を目指すなら、日本的雇用を徹底的に「破壊」して、ジョブ型につくり変えなくてはならないのです。
 ジョブ型雇用とは、1960年代の公民権運動以降、アメリカ社会が「従業員から差別だと訴えられないためにはどうすればいいか」を試行錯誤しながらつくり上げてきた制度です。それが(日本を除く)世界中に拡がったのは、「リベラル」を自称する人たちが誤解しているように「ネオリベ(新自由主義者)の陰謀」などではなく、すべての労働者を平等に扱う「リベラル」な雇用制度がこれしかなかったからです。」(5ページ)

 ジョブ型とはジョブ・ディストリクション(職務記述書)に記載された仕事内容によって一律に報酬などが決められている、アメリカなどで広く行われる働き方であり、日本的な、新卒一括採用、終身雇用、定期昇給の働き方とは真逆のものである。これが広まったのは、「ネオリベの陰謀」などではなく、「リベラル」が徹底したからだという。
 なるほど、それはそうであろう。
 しかし、リベラルが徹底したアメリカの雇用情勢はどういうことになっているのだろう?上でいうような、バーベル経済で、格差が拡大するばかりなのではないだろうか。そういうのが、まさしく、ネオリベの弊害に他ならないのではないか。
 橘氏も、日本は一周遅れだから、逆に恵まれているというようなことを語っている。
 私の理解では、ネオリベとはリベラルと全く別物なのではない。リベラルのある部分の徹底をこそネオリベと呼ぶのだと思う。
 基本的人権のうちの自由権、それも特に経済的な自由権を徹底しようとするのがネオリベである。
 ネオリベは自由権を重視し、特に経済活動の自由を最も重視する。その一方で、社会権を相対的に軽視する。経済的な自由を徹底することで、「見えざる手」によって社会権は自ずから充足されるというような主張までする。極端にいえば、行政が手を出さなくとも、問題は解決されるとまで主張する。そこまで行くと、「ネオリベの陰謀」と呼ぶべき状態なのではないか。
 問題は、社会権である。基本的人権は、自由権のみで成り立つのではない。参政権があり、社会権がある。
 現在の世界は、ほっておけば、経済活動の自由が際限なく拡大し、つまり、人々の間の格差が際限なく拡大する傾向にあるに違いない。
 私が思うに、リベラルとは、そこに理念的な制限を加えようとする意志である。経済的な自由の徹底から生じる問題に対して対処しようとする姿勢である。自由権と社会権を同等に重視する立場である。社会権は、自然的自動的な流れで保護されることはない。意図的に理念を掲げて守ろうとする意志が必須である。
 この本を読んでいると、橘氏の言うリベラルとは、社会権を軽視しているように見える。つまりは、ネオリベの主張そのものであろう。

【人間扱いされない非正規公務員の現実】
 文庫版特別寄稿「誰もが知っていながら報じられない「労働者」以前に「人間」としてなんの権利も認められない非正規公務員の現実」において、橘氏は、神林陽治氏の報告を紹介する。

「神林陽治氏は10年にわたって官製ワーキングプアの問題に取り組んできた第一人者で、著書『非正規公務員のリアル 欺瞞の会計年度任用職員制度』(日本評論社)には驚くような話が次々と出てくる。」

 神林氏は、自治総研の研究員で、現在、立教大学コミュニティ福祉学部特任教授をなさっている。
 ここで挙げられる項目は、どれも衝撃的なものである。たとえば「子ども家庭相談員はなぜ27歳で自殺したのか」、「生活保護を受給しながら教団に立つ小学校教員」。これらは、すべて、非正規雇用の公務員である。今でいう年度採用職員ということになる。
 ここに解決すべき問題があることは確かである。
 雇用に関するリベラル化が貫徹し、同一労働同一賃金という建前が、きちんと機能する社会であれば、それはそれでなんとかなることではあるのかもしれない。正規職員と非正規職員の格差が是正されて、等しく日々の暮らしが成り立つようになれば、それはそれでよいわけである。
 さて、「神の見えざる手」がそこまできちんと調整してくれるであろうか?
 神林氏の提起する非正規の問題に、ネオリベの徹底の方向で問題解決をしようとするのか、社会権の尊重の方向で解決を図るのか。
 ここが考えどころである。
 神林氏の所属する自治総研は自治労系のシンクタンクである。30年も前、私は神林さんから声がけいただいて、武藤克己法政大学教授らとともに、生活保護における地方分権というテーマで、小冊子を作成するチームを組んで、泊りがけで議論を行い取り組んだことがある。震災後には、シンポジウムに呼んでいただいて、被災地からの報告の機会を与えていただいた。私としては、勝手ながら、今でも同志と思っている。

【結論、あるいは競争社会から自由になること】
 最近の若者の動向(一部なのかもしれないが)をみていると、上位30%に何がなんでも入らなきゃいけないみたいな思い込みから自由になっている人々も多いような気がする。競争社会には、初めから参入する気がないというか。
 私などは、それでいいんじゃないかと思ってしまう。
 もちろん、それが成り立つためには、いまの世界で無為無策でいればいいというのではない。
 社会保障、社会政策が必須である、と私は考える。ソーシャルワークである。
 ネオリベ的なメンタリティに対抗する社会福祉への志が必須である、ということを、ここでの結論として述べておきたい。
 リベラルという理念の考え方については、少々、距離感があるとは思うが、なるほど、この書物は、まさしく「会社人生から自由になる方法」について、実例を挙げて、有用なヒントを教えてくれる書物だったかもしれない。
 ふう。いささか長文になったし、時間がかかった。書物の紹介というよりは、私の考えの整理ができた、というところだな。



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