2021年6月30日付けの発行。ちょうど良く、見開き2ページに収まった詩が、52編。月1回とすると52月、4年と4月。
「これからしばらくこの紙面に月一回
何かを書かせてもらえることになった」
冒頭の「私事」(わたくしごと、とルビ)、第2連はじめの2行である。
ネットで見ると、朝日新聞デジタルの同名の連載で、現時点でまだ続いているようである。いちばんはじめの作品が2017年1月掲載のようで、現時点で丸5年経過ということになるようだ。ただちょっと、それ以前から始まっている気配もあるが、ここでは、その詮索はしない。
【詩における定まった形】
一読、すべての詩が見開きに収まっている行儀よさに気づいた。編集者の注文に応じて、毎回の行数を、スペースに合わせて書き続けた、その当然の結果であろう。読み終えた時点で、上に引いた2行は忘れていたが、なるほど、やはり、である。
谷川俊太郎は、そういうふうにして詩を書く。念のため言っておけば、これはけして揶揄でも批判でもない。そういうふうにして、外枠から形を決めた上で、詩であるような詩を書く、というところが、谷川俊太郎の谷川俊太郎である所以である、ということだ。
ところで、私も、このところ、継続して秋亜綺羅氏の「月刊ココア共和国」に投稿を続けていたが、HPの投稿フォームは、長さが本文30字×30行以内と限定されている。これは広く投稿を受け、審査し、誌面に掲載することを手際よく進めるための方便である。しかし、その外形的な制約が、あながち悪く影響するものでもない、というか、むしろ作品の質を高める作用があるとすら思えている。勢いのまま野放図にことばを繰り出すことができず、削除して切り詰めてエッセンスを凝縮していくよう形づけられる。
しかし、谷川俊太郎の場合は、書きすぎるほど書いて切り詰めて行数に合わせる、というよりは、最初から、過不足なく適切な長さに書いてしまえる、ということのように思える。
【冒頭の詩「私事」、時代への寄り添い】
「私事」(8ページ)は、つぎのように始まる。
「バッハが終わってヘッドフォンを外すと
木々をわたる風の音だけになった
チェンバロと風のあいだになんの違和もない
どこからか言葉が浮かんできたので
ウェブを閉じてワードを開けたが
こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」(第1連)
詩の後半第3連を見ると、詩人がいるのは、親の代から受け継いだ北軽井沢の別荘である。夏、窓を開け放って、「木々をわたる風の音」につつまれて詩人が椅子にかけている。その椅子は、木製の、形良く、座り心地もデザインされた、良質の椅子であるに違いない。
そこで「ウェブを閉じてワードを開け」る。もちろん、軒下の蜘蛛の巣を払って、脳内の言葉を紙の上に現出させる、わけではない。インターネット・エクスプローラーか、グーグル・クロームか、ワールド・ワイド・ウェブのブラウザを閉じて、ワード・プロセッサのソフトウェアであるワードを立ち上げたということである。
そういえば、バッハのチェンバロ曲を聴いていたのは、ステレオの大きなスピーカーからではなく、ヘッドフォンからだという。パソコンの然るべきソフトで、サブスクの聴き放題で聴いていたに違いない。あるいは、無料のユーチューブか。
北軽井沢の別荘に象徴される昭和の文化人が、現在のパソコン1台をふつうに活用して詩を書く。
谷川俊太郎は、いつもこういうふうにさりげなく、時代を詩に書き込む。ちょっとした違和を形にする。「こんな始まり方でいいのだろうか」?
「これからしばらくこの紙面に月一回
何かを書かせてもらえることになった
詩として恥ずかしくないものを書きたいが
音楽と違って言葉には公私の別がある
非詩を恐れるほど臆病ではないが
独りよがりのみっともなさは避けたい」(第2連)
喩えて言えば、第1連は、ドラマのセリフだとして、最後の行は「ト書き」めいているが、第2連はまるごと「ト書き」であると言っていいだろう。これは「詩」なのだろうか?「非詩」を恐れないとも書いている。
その昔、鳥羽という連作詩に書いた「本当の事を云おうか/詩人のふりはしているが/私は詩人ではない」という高名な詩句があるとおり、谷川は、ふつうには詩ではあり得ないような言葉を書いて詩にして来た詩人である。現代において、詩人は詩人ではないというアクロバティックな様態を生きなければならないわけで、なんともアクロバティックな話である。現代の詩人のなかでは、分かりやすい詩を書いてきたはずの谷川も、実は、そうそう安易に片づけられない難しさがある。
ところで、言葉は音楽と違って公私の別がある、というが、これはどういうことだろう?言葉に私的な言葉があるのは言うまでもないが、私的な音楽についても、私などいくらでも例が挙げられる。しかし、だからといって、ここで谷川が間違ったことを言っているとは思わない。何らかの含意はある。ちなみに、いま私たちが聴けるバッハの音楽は、すべからく公的なものである、というべきだろう。その場で、谷川が聴いていたバッハの音楽は、均整のとれた公的なものであることに間違いはないが、これから詩人が吐こうとする言葉は、ごく私的な、整わないつぶやきであったり、滑った冗談であったりする危険性は伴う。そういう危険性はあるとしても、谷川に、私は公に受け入れられるものを書くのだ、という志はあるわけである。
【別の3編の詩】
さて、「小さな花」(12ページ)は、あまり余計なことは言わずに読んでみよう。
花に対して、「私はきみに詩を贈りたい」という第1連の末尾につづけて
「だがヒトの言葉の有り余る語彙で
私はきみを飾りたくない
きみを形容するには美しいの一語で足りる
いや本当はまったく足りない
黙ってきみを見つめているのが一番だが
それでは詩人の沽券に関わる
地球を私はきみと分かち合っている
きみと私のいのちの源はひとつ
だがこんなにも形が違い色も違う私たちだ
指できみの花弁にそっと触って
私は咲いているきみと別れて歩き出す
青空に雲がひとひら生まれかかっている」(第2連~最終第4連)
これも、言葉について、詩について、の詩である。さらに、現在の、人間も植物も地球の一部であるという、地球環境の有限性に通じていく思想にも触れられる。
さらに、「また詩が気になって」(32ページ)という詩も、タイトル通り、詩について、言葉についての詩である。北朝鮮などとひと言も言わないが、ICBMという一語を書き置く。
「言葉は不自由だ
鳴き声と笑い声だけで
詩が作れないものか」(第2連)
「辞書では共存しているが
虹とICBMの二語のあいだに
詩は割り込めるだろうか」(最終第5蓮)
「コトバさん」(58ページ)も同様である。
「考えから生まれる詩は
ほとんど賞味期限が切れている
やみくもに歩き出して
ぶつかったものを拾う方がいい」(第1連5~8行目)
「拾ったコトバの分別と組み合わせが
六十余年コトバさんと交際してきた腕の見せどころ
屑と見えたものがところを得れば
詩の行中で得体の知れないジュエリーに化ける
そのスリルには飽きていないが
俗界のフェイク言葉の垂れ流しの洪水に
真言もプラごみとともに
波間に漂っている」(同じく第1連12行以下)
波間に浮かぶプラごみや、ネット界に漂うフェイク言葉は、いま、現在、大きな問題である。そういう言葉にぶつかって、谷川俊太郎は、逃さずにすくい上げる。
「コトバさん コトバさん
「本当のこと」はどこにある?」(最終第2連)
【本当のこと】
口に出すと世界を凍らせるような本当のことを仕留めようと、谷川俊太郎は、今も、世界という海面を進む突きん棒漁船の上で身構えている。
いや、世界を凍らせようとするのは、谷川俊太郎ではなかった。谷川の本当のことは、キューピッドの矢のように楔を打ち、心をほどかせ、クスリと笑わせ、溶かして、発見させ、少しばかり幸せにする、身の回りの世界を改良しようと思い立つ、そんな類いのことだったかもしれない。
そして、谷川俊太郎のように、私もいつか「本当のこと」を、と。
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