信田さんは、原宿カウンセリングセンター顧問(元所長)、臨床心理士かつ公認心理師で、現在、日本公認心理師協会の会長を務められているという。このブログで、一昨年になるが『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』(角川新書)を紹介している。
「私は文学者でもなく、大学の研究者でもない。この日本で家族を営んでいる人たちが直面するさまざまな問題を、カウンセリングを通して解決に向けて援助するのが私の仕事であり、その際支払われる料金で生活をしている以上、そこには責任も発生する。」(2ぺージ)
【タフラブとは】
さて、タフラブ(tough love)という言葉について、序章「タフラブの誕生」から見てみる。
「この言葉は最初、「アラノン」(Al-anon)という、アルコール依存の問題を持つ人の家族や友人の自助グループ…で使われたとされる。その背景にはアルコール依存者の妻たちの長い苦闘の歴史がある。」(18ページ)
引用は、アメリカにおいての歴史であるが、信田氏自身も、日本において、そういう妻たちに数多く出会ってきたものであろう。
「AAもアラノンも、ミーティングの場では「ひたすら自分の体験を語る」のだが、それを聴くことでほかのメンバーが助けられる。だれにも言えなかった、だれにもわかってもらえるはずがないと思っていた経験が、それを聞いている他者を助ける。何の価値もないような自分の経験が、他者の助けになると知ることで、自らも助かるのだ。」(21ページ)
アラノンやAA(アルコホーリクス・アノニマス-アルコール依存症者の自助グループ)における、このひたすら語り、ひたすら聞くことによる不思議な効力について、ここでは詳細には触れないが、また、自らの無力さを認めることから始まる回復の不思議なプロセスもあるという。これらは、信田さんが長年紹介されていることだ。
「夫に説教し、なんとかやめさせようとあらゆる策を弄しても無駄だ。私には、夫の酒を止めさせることはできない。夫の飲酒に対して私は無力なのだ。」(22ぺージ)
無力であると断念し、「飲むか飲まないかは、あなたの問題です」と距離を取った言い方で突き放した結果、酒を止める夫が現れたのだという。
「密着し、尽くすことで夫を救うことはできなかった。それよりも勇気をもって手を放すことが、結果的にアルコール依存症から夫たちを救った。それこそが愛なのではないだろうか。」(23ページ)
それこそが、「タフラブ」だと言う。密着した尽くす愛ではなく、突き放し距離を取った、一見冷淡な愛、勇気に満ちた愛だったのだと。
【家族という無法地帯】
第1章「無法地帯」の小見出し「唯一の解放区」の節から引用するが、「唯一の解放区」でありながら同時に「無法地帯」でもありうるというのは、言うまでもなく「家族」という場所のことである。
新自由主義的なマネー一辺倒、効率一辺倒の社会からの解放区であり、コロナ禍の感染リスクからの解放区であるはずが、実はがちがちに抑え込まれた最も危険な場所ともなってしまうような「家族」。
「日本ではセックスで結ばれた絆は、もはやあまり意味も価値ももたなくなった。女性たちがロマンティック・ラブ・イデオロギー(結婚における「愛」と「性」と「生殖」の三位一体説)に支配されていた時代は過ぎ去り、セックスレス夫婦や婚外セックスが珍しくないこの現実のなかで、セックスによる絆は一気にその価値を下げている。
そんな現実のなかで相対的に価値を増して浮上してきたのが家族、あるいは親子の絆である。「家族の絆」と言ってはいるが、じつは特別天然記念物のトキのように絶滅寸前の「夫婦の絆」(セックスの絆)を「家族の絆」に代替して強化するための、苦肉の策にも見えてくる。」(56ぺージ)
ロマンティック・ラブ・イデオロギーについては、このブログでの『家族と国家は共謀する』の紹介のなかで、私の思うところは書いているが、いずれ、夫婦であれ親子であれ、家族という閉ざされた場所の危険性を語っていることは変わりない。
「どこに行っても管理・効率・ポジティブ一辺倒の社会であればあるほど、家族への期待は増す。言い換えれば、社会のルールからの解放区としての家族への渇望である。しかし、それは裏側から見れば、治外法権そのものであり、力のある者がやりたい放題となり、社会での満たされない鬱憤をすべて晴らそうとする者が猛威をふるう場所にもなりかねない。しかも、家族の城壁は厚い。プライバシーという名で固く閉ざされている。最後の砦は、収容所や殺戮の場にもなりかねないのである。」55ぺージ
家族ほど危険な場所はない、ということだ。
【母性本能はない】
その危険性は、父親によるDV、支配ということもあるが、ひとり母親に背負わせられた養育の問題ということもあるわけである。母性本能を当然の前提とすることの危険性も語られる。
「しかし「子どもにさわれない」という母親がいることは確かである。子どもを生きるための道具にする母親だっている。小児科の医師たちもそうした事例をたくさん見ているはずだが、「これは病気だ」として周縁化するか、「これはだれにでも起こりうることだ」と思うか、そこは大きな違いがある。」(97ぺージ)
言うまでもないが、「病気」だからごく一部の問題だと周縁化して、そこにだけ重点的に対処すればいいのだから対策は楽だ、と思ってはいけないということである。一方、「だれにでも起こること」だからあまり深刻になる必要はない、ということでもない。日常的に起こりうる重大な問題だということだ。
「そんなとき、私は次のように話す。
「母性本能なんて、ないですから」
「全然不思議じゃないんですよ。かわいくないと思うんなら、それでいいんです。でも、かわいくなくても、かわいいふりをしないとまずいでしょうね。どうやったらかわいいふりができるか、一緒に考えていきましょう」
そうすると、彼女たちの目からウロコが落ちる。」(98ぺージ)
とりあえずは、「ふり」ができればいい。心底から愛していなければいけないという思い込みや厳格なルールのようなものに縛り付けられなくていい。
これは、母親たちにとって、救いの言葉に違いない。
【傾聴のみではない】
ここで留意したいのは、カウンセラーにとって、重要な問題が語られているということである。
信田氏は、自らの経験に基づく適切なアドバイスの言葉を持っているわけである。
傾聴してそれでお終いの、聴きっぱなしではない。安易な既成概念によるアドバイスは有害であるとされるが、ケースの実情に応じた適切なアドバイスはありうる、ということになる。
【親がいても子は育つ】
ところで、下記の言葉は、社会的養護の正当性を担保してくれる言葉でもあるが、タフラブというものについて、重要な語りとなっている。
「私たちからすれば、まともな人間を育てるのは父である必要もなく、母である必要もない。その子が安心できる環境であれば、そしてできればその子が占有できる特定の大人のもとで育てば、それで十分だ。108ぺージ
「逆説的だが/「親がいても子は育つ」/と思う。」109ぺージ
これは、逆説である。一般的には。
しかし、個別のケースの実情によっては、この言い方が全く逆説ではなくなる場合がある。そういう例は、少なからずある、ということである。DVや虐待が常態となってしまった家族。
ひょっとすると、現在の日本社会において、ほとんどの家族がそうなってしまった、ということはまさかあるまいが。
一見、理想的に見えなくもない父親のあり方もあるという。
「もののわかったふうな、穏やかで、民主的で、論理的な父親というのは、用心してかからなければならない。理路整然と息子を追いつめ、穏やかな口調で逃げ道を塞ぎ、真綿で首を絞めつけるように包み込んでいく。」115ぺージ
(私自身は、息子との関係性において、どうだったろうか?どうであるだろうか?)
【タフラブあるいは新しい家族のかたち】
さて適切な距離を保ち、適切に配慮し合おうとするタフラブであるが、
「タフラブは、寂しさと隣り合わせだ。いつも、隣には寂しさの気配を感じるだろう。さらに、タフラブは、タフネスを要求する。」(202ぺージ)
「つまり、他者から侵入されない。他者に侵入しない、他者を傷つけない、他者から傷つけられないという、控えめなリスク回避を目標とする関係を目指す時代になろうとしているのだ。…もっとも幸せなはずの家族、親子・夫婦がともに暮らす家族ですら、リスク回避を目途にする時代が、もう目の前に来ている。」202ぺージ
始めから敵対し闘争しているような家族にしかリスクがないということではない。むしろ気楽に安心できる場を求める夫と妻の間にこそ闘争は生じてしまう。
「両親が目の前で繰り広げてきた、「理解」や「共感」を求めての闘いに、幼い頃から辟易していたのかもしれない。若い夫婦は、お互いにもっとクールなのだ。なぜなら、もつれ合い、こじれる関係は、互いの「問題」に入り込み、理解し、理解されようとすることから起きることがわかっているからだ。」203ぺージ
信田氏は、若い世代に新しい家族のあり方の実現を期待しているようだ。
「そんな新たな時代の人間関係のキーワードが、タフラブである。これまでの、もつれ合い、絡み合った関係からの解放のために、タフラブこそが必要とされる。」203ぺージ
【近代の理念と憲法の基本的人権】
ひょっとすると、これは私たちが、近代以降、自立した個人の間の理性的に統御された関係として追い求めてきたものと同じことなのではないか?
信田氏は、この本で、憲法の基本的人権の条文を引用されている。
「この本を手にされた方には、日本国憲法の基本的人権の条文を読んでいただきたい。この文章は実に素晴らしと思う。」(88ぺージ)
そして、第11条基本的人権、第14条法の下の平等、第24条婚姻の条文を引用されているが、ここでは省く。言うまでもなく、日本国憲法も人間の理性の歴史の中で制定されたものであり、私たちの社会の柱石として機能していなければならないものである。
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