◆創刊四〇年である。
いつのまにか、時が経ている。
私が、二十歳代のときは、未来に明確な希望があった。世界中のすべてのひとが、総体として少なくとも今よりは幸せな生活を送ることができる未来があると信じていた。自分自身の未来も、同様に信じられたと思う。
いや、私はすでに挫折していた。都落ちした人間であった。しかし、故郷の小さな町で新規まき直し、希望をサイズダウンしながら生き直して行けるはずと思った。世界の明るい未来のなかで、小さな土地にも幸福はあるはずと。
実際に、幸福はあった。たとえば、霧笛の持続こそ、私の小さな幸福のひとつのかたちである。これは、間違いがない。
しかし、今、世界は、どうなってしまったのだろう。
小林秀雄のように、人類は進歩などしていないのだと語りつつも、それはアイロニーとして機能しうる言葉だった。文明は進歩し続けているという世の常識に対して、歴史上の文化を紹介してその達成を讃え、時々の芸術の到達点(たとえば能楽の花)を、今に至るまで超えてはいないことを明かにしたのであって、文明が進展していること全てを否定したわけではないだろう。しかし、今、それがまさに否定されているというべきではないか?現実の出来事が、人間の進歩を否定している。皮肉にも、警句にもなり得ない。
だが今でももちろん、小さな土地に、小さな幸福はある。休日の朝のコーヒー一杯は幸福の象徴でありうる。しかし、今朝のこのコーヒーはアフリカの産物である。エチオピアのコーヒーが紅海を渡ってイエメンから積み出されていた。気仙沼も、地球の上、世界の中にしかない。
考えてみれば、私たちは、すべての厄災を生き延びた側の人間の子孫である。生き延びた人間は、生き延びること叶わなかった人間に後ろめたさを、罪悪感を持つ。しかし、生き延びた人間を除いて、希望はない。ありえない。親鸞の悪人正機とは、このことを語っていたのかもしれない。
子どもらよ、生き延びよ!
◆記念号に、多くの方の寄稿をいただいた。継続して感想をお寄せの方々も含め、深く感謝申し上げる。霧笛は気仙沼という場所で継続していく。未だしばらくは。
◆私事だが、県詩人会報と気高同窓会報とこれと、編集後記が続く。
表紙・白幡みゆ「ドアノブのないドア」
〈霧笛40年〉
霧笛の四〇年、私の四〇年
西城健一さんと故小野寺仁三郎のふたりにお会いしたのは、内の脇の踏切そばの珈琲館ガトー、窓際の四人掛けのテーブル席だった。
南町煎餅坂にガトーが開店したのは、私が高3の夏、一九七四年のことだ。その後、田中前へ、八四年の霧笛の創刊時には内ノ脇へと移転していた。その間に、私は、首都圏に進学し、就職し、六年を過ごして、気仙沼に帰った。
西城さんと仁三郎さんが八月に霧笛を創刊して、四月に最初の詩集「ブックレット湾」を出したばかりの私を同人に誘っていただいた。十一月の第二号から参加し、「カボチャのない世界」、「描かない詩」の二編を発表した。
私は私の流儀でと、当初はほんの腰掛けのつもりだった。しかし、傾向にとらわれない「気仙沼の詩の広場」として、よくもここまで続いたものだと思う。
参加後、年が明けて結婚し、二年後には息子が生まれた。千田遊人である。
大人となった私の生きてきた道筋は霧笛とともにあった、のだったかもしれない。
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