信田さよ子氏は、臨床心理士・公認心理師で、原宿カウンセリングセンター所長。お茶の水女子大から大学院で心理学を学び、臨床心理家、開業カウンセラーとしては長く第一人者の場を占めている方である。AC(アダルトチルドレン)の概念の日本への紹介者ともいうべきであり、著書も多数に上る。
まえがきは、「母の増殖が止まらない」とサブタイトルが付されている。
「これまで筆者は『愛情という名の支配』『共依存』といたタイトルの著書によって、家族における、中でも母親による巧妙な支配がどれほど子どもたちを縛り、深い葛藤をもたらし、自分と母との人生を分離できない事態をもたらすかを描いてきた。中でも『母が重くてたまらない 墓守娘のなげき』(春秋社)は、多くの女性たちからの共感を呼び、母娘問題に先鞭をつける役割を果たすことができた。」(7ページ)
【エディプス・コンプレックスから母の支配へ】
精神分析の創始者フロイトは、エディプス・コンプレックスという言葉により、父親の強権的な子どもの支配による影響力の巨大さを語ったが、現代の社会においては、むしろ母親の力のほうがより目立ち、前景化され、問題化されているといえる。
しかし、母親の支配は、一見してわかりやすいわけではない。
「母親の支配は、虐待という言葉で想像されるような、行為の客観性(殴る・蹴る・首を絞める……)に乏しく、傷痕や火傷の痕も残らず、その被害も実証できない。何よりも、母親たちの一つ一つの行為を取り上げれば、子どものために一生懸命な、よき母親以外の何者でもないと判断されるのだ。」(8ページ)
子を守る揺籃であるべきであり、傍目にはそのとおりとしか見えないものが、実は拷問の監獄であったというような事態があるという。なんとも恐ろしいことである。
父の問題にしろ、母の問題にしろ、家族の問題ではあるが、それは同時に、社会の問題でもある。
「本書では母の支配についても述べたいと思っている。実はそのような母親の行為をもっともよく理解できるのがポストフォーディズムという視点なのである。」(8ページ)
【ポストフォーディズムあるいは資本主義社会の進展】
ポストフォーディズムというのは、工場の生産様式の話であり、産業構造の話であり、経営学、経済学、社会学関係の用語である。一般的に言えば、心理学系の用語ではない。
アメリカの自動車会社フォードの工場で開始されたといわれる単純な流れ作業の組み合わせによる大量生産の方式であるフォーディズム(=フォード的な方法)という言葉。その前に、ポスト(後という意味)という接頭辞をつけた言葉であり、フォーディズムの後の生産のあり方、ということになる。世の経済活動のメインが、大きな工場の長大なベルトコンベアに沿って、多人数の単純な工程の積み重ねで部品を組み立てて大量の工業製品を作る第二次産業から、創意工夫によるデザインを施された付加価値重視の少量多品種の供給という第三次産業重視の見方へシフトした。
その流れのなかで、労働者に求められる主たる人間像が、言われた通りに手を動かして単純作業をこなす従順な労働者から、自由な発想で創意工夫をこらす企画営業マン、市場に即応したマーチャンダイザー、マーケティングの専門家に変化した、大雑把に言えばそんなことである。
「カウンセラーである私がそのような言葉を用いることに意外感を抱かれるかもしれない。しかし、家族ほど力関係が渦巻き、支配をめぐる暗闘が繰り広げられる世界はないのだ。」(8ページ)
こころの問題は、家族の問題であり、同時に、社会の問題である。それらはすべてつながっている。個人の心の問題は、他の人間との関わりの問題であり、つまりは家族の問題であり、広く言えば社会の問題である。心理学や精神医学と、社会学はつながっている。もちろん、社会福祉の問題もその連関のなかにしかない。さらには、法学、政治学、行政学、経済学、経営学とつながっており、ひっくるめて哲学とつながっていることは言うまでもない。
「…外界から相対的に独立した「こころ」の問題などない、と思っている。…もっともわかりやすいのは国際政治に模すことだった。そして、労務管理の方法論を学ぶことで、ポストフォーディズムほど母親の支配を明確に表しているものはない、と思うに至った。これは小児科医の熊谷晋一郎さんと哲学者の國分功一郎さんとの対談に大きな示唆を得ている(『〈責任〉の生成』新曜社、2020年)」(9ページ)
熊谷晋一郎氏と國分功一郎氏の『〈責任〉の生成』は、このブログで紹介したばかりである。
「そこで求められる労働者は、適応できる即応性と柔軟性を備えていなければならない。資本主義社会の多くの場で、このように期待される人間像が大きく転換したことをポストフォーディズムという。」(10ページ)
フォーディズムにおける、毎日毎日同じ単純作業を繰り返す奴隷的な労働から、ポストフォーディズムにおいては、日々自由に考え、発想し、新たな物を創造する自由度の高い労働へ進化したというふうに言えばそうでもあるにも違いないが、そう単純なことではない。非人間的な定型労働から、人間らしい想像力あふれる創発的労働へ、などというと良いことだらけに見えるだろうが、そうではない。
見えない支配、分かりづらい束縛が社会にはびこり、むしろ、社会全体が非人間的な代物へとさらに進化してしまったというべきなのかもしれない。
「多くの企業や地方自治体の窓口対応は、ソフトな語り口によって選択可能性を提示し、それを選んだのはあなたであり責任はあなたにあります、という論理に貫かれている。家族における母親の支配・管理と社会全体に瀰漫するソフトな自己責任追及の空気は似ていないだろうか。
母と娘の問題は、家族における女性だけに限定されるべきではない。むしろ、二〇世紀末から資本主義社会の多くが直面している社会の液状化とポストフォーディズムの問題が。母の支配に象徴されることで、女性というジェンダーの装いとともに表面化しつつあるということだろう。」(13ページ)
なるほど、母の増殖とはそういうことか。
【信田氏の立つ場所】
自己責任云々は、國分氏と熊谷氏の『〈責任〉の生成』に詳しいところであるが、見えない支配、分かりづらい束縛による問題が、顕在化しているというべきなのだろう。
ここには、信田氏のカウンセラーとしての一個の決意表明がある。自らの立つべき場所を明らかに宣言している。心理カウンセラーは、心の問題にのみ閉じこもっているわけにはいかない。当然のことながら、身体の問題、家族内の関係、社会との関係に着目せざるを得ない。
「一般的にカウンセリング(心理的援助)は、身体よりも心理・精神的な問題を対象とすると考えられている。しかし、私のような開業心理相談はもっと幅広く家族などの「関係」を対象としている。」(43ページ)
「近年、心と身体という分割をゆるがす問題が、カウンセリングの現場で増えている。たとえば、リストカット、オーバードーズ(処方薬の大量摂取)、摂食障害などであり、さらにはDVや児童虐待などの家族内暴力である。」(43ページ)
身体とか、人間関係とかに着目しない心理カウンセリングが、これまであったのかどうか、私には想像しがたいことだが、改めて信田氏が、現今の資本主義社会における人間の問題について、狭い意味でのこころのなかに閉じこもらず、社会に開かれた問題意識で取り組んでいこうとする意志は明らかである。そこでは、もちろん、国家も射程に入っている。国の政治のありようも、批判的に見ていくことになる。
【加害者と被害者】
ところで、DV、児童虐待などの暴力は、暴力を振るう側と暴力を被る側の両方があってはじめて成り立つ。そこで、加害者と被害者が必然的に生み出される。
「暴力とは他者かあらの望まぬ侵入を表すが、そう定義することで、加害者と被害者という相反・対立する関係が生まれる。
…基本的に被害者はイノセントであり責任がなく、擁護されるべきであり、結果として正義となる。中立的立場が公正であるならば、…被害者の立場に立つことが中立となる。…しつけが厳しすぎた親から虐待する親へと定義が変化することで、中立点は弱者寄りになるのだ。」(49ページ)
このあたりの議論は、必ずしも分かりやすくない。信田氏が、端的に何を言おうとしているのか、そう簡単には分からないかもしれない。
心理カウンセラーは,どこに立つ、というのだろうか?
心理カウンセラーは、中立的立場に立つ、という。
もう一点、心理カウンセラーは被害者の立場に立つ、という。
この2つは、常に必ず両立するだろうか?
そこに暴力があって、加害者がいて被害者がいるとすれば、良識ある人びとは、被害者の側にたって支援しようとする。被害者を守り、加害者を制する。被害者を手当てし、加害者を取り押さえる。一般的に言って、それは正しい判断である。
だから、心理カウンセラーは被害者を守り、手当する、それでよいと言っている。しかし、それはそのまま中立である、という。それが中立を損なうことにはならないのだ、と言っている。「被害者の立場に立つことが中立となる」、「中立点は弱者寄りになる」というわけである。
これで一件落着である、ということにもなりそうだが、そうでもなさそうである。
「しかし、…たとえば被害者の絶対的正義の主張、加害者を悪とする二極対立が発生する危険性も無視できない。…
加害・被害の硬直化した二極対立を避けるためには、動的でポリティカルな視点をもち、被害者性の強調が時には一種の権力を帯びることに十分自覚的であることが必要だ。」(49ページ)
ある場面での加害者が,簡単に被害者の立場にひっくり返るということもある。被害者だったものが、別の者を加害するという場合もある。
心理職にとっては、加害者支援を担当しなければならないときもあるだろう。これは、もちろん、加害者が加害し続けることへの支援ではない。加害者が加害し続けなくて済むようになるための支援である。
言うまでもなく、これは、被害者への支援と同時並行に進めるものではない。加害の行為は、まずは、すぐに制止しなければならない。そして、被害者への支援は速やかに行われなければならない。そのあとで、その場での加害・被害関係が終わったことを確認したうえで、加害者への、加害の行動を行わざるを得なかった事態に対する対処を始める、ということである。
加害者は、罪を犯した人間として断罪すればそれでいい、それでおしまいという話にならないということである。もちろん、罪は、断罪すべきである。しかし、ひとはどこかで許すべきであるかもしれない。動的でポリティカルな視点をもち、そこに「一種の権力」が発生しうることに自覚的でなければならないということである。
信田氏の行論は、たとえば、そんな事態も想定して、ちょっと見には歯切れの悪いものとなっているのだろう,と思う。
「望むと望まざるとにかかわらず、家族を形成したとたんに権力を手に入れてしまう男(夫・父)には。暴力防止の責任が発生する。子どもを産んだとたんに法外な権力を手に入れる母親にも、同様の責任が発生する。…
では、果たして父・母・子のトライアド(三角形)から成る家族、近代家族において、権力と暴力を防止する装置は可能なのだろうか。家族内の弱くて小さな存在の安全性が守られるためには、何が必要なのだろうか。もちろん、すでにアメリカやカナダで実施されている家族の暴力への厳罰主義的な政策的対応に学ぶ視点が必要なことはいうまでもない。」(73ページ)
問題は終わらない、ということだろう。
【ロマンティックラブイデオロギーの解体?】
ところで、以下のところは、単純にそうだね、と同意できない問題をはらんでいると思う。たとえばハンナ・アレントのいう「人間の条件」から外れたことになってしまうのではないか。
うえで、暴力への対処として、「厳罰主義的対応に学ぶ」と語ったことに続けてのところである。
「もう一つの可能性は、近代家族を支えるロマンティックラブイデオロギーの解体であろう。愛と性と生殖の三位一体説の一角を崩していくことで、暴力の防止が図られるのではないだろうか。次世代再生産の可能性が生殖医療の進捗によって広がれば、同性による家族形成も可能になるかもしれない。また、コーポラティブハウスに見られるような、個人の集合体である住居も生まれている。
親密な関係の危険性を熟知し、それを避けて暴力防止を目指すならば、男女と親子という関係が家族を構成するという、近代家族の基本そのものを問い直す必要が生まれる。個人が安全に生きるための器が家族であるとすれば、もっと多様な独創的な家族が生まれてもいいだろう。ペットと暮らす人、男同士、女同士で暮らす人など。いずれも「これが家族だ」と言ってしまえば、それが家族になる。LGBTQといった性的多様性の尊重を掲げる動きが、家族のあり方を変えていけることを信じたいと思う。」(74ページ)
人間のテクノロジーの進展が、新たな家族形態の可能性を広げるということである。もちろん様々な形がありうるということは認めるべきである。その尊重は必要なことである。しかし、人間の親密な感情の進展として新しい生命が誕生するという根本はないがしろにしてはいけない気がする。「ロマンティックラブイデオロギーの解体」というと、人類の進歩の一環と肯定的に捉えしまいそうだが、これはほんとうにそうだろうか?
新しい生命の誕生が、さらに人間の親密な感情の増進を促し、それがまた新しい生命の誕生につながっていくという連関,幸福な循環,それこそが人類を存続させる根源なのではないか。
どんなカップルにも平等に公正に新たな子どもが授かるために、出産は、すべて人工授精により、人工子宮で10ヶ月育成することとするなどということは、テクノロジー的には可能なことであろう。女性にとっては、妊娠出産というその性にのみ課された負担を軽減するにも役立つわけである。一般の体細胞から生殖細胞を作成し、また生殖細胞を経由しないで直接体細胞を増殖させて胎児を作成し、などということも可能になってしまいそうである。
しかし、これはどうなんだろうか?優秀な遺伝子のみを選別してなどと言う優性思想は考えないにしても、である。
マイノリティをたいせつにすることは必要なことだが、かといって人間の条件が失われることとなるとすれば元も子もないのではないだろうか?人間の自然はどうなってしまうのだろう?女性の妊娠出産の過程は、負担とだけで片付けられるものではないはずである。「ロマンティックラブイデオロギー」が解体されて、私たちは,幸福に生きていくことができるのだろうか?
人類は、基本的に自然な妊娠によって持続していくべきなのではないだろうか?いや、配偶者同士の生殖細胞による体外受精や、手術による出産を認めないということではない。だから、百パーセント自然な妊娠と出産にこだわるというわけではないが、新たな生命の誕生の根幹のところは、自然のままに残しておかなくてはならないのではないだろうか?
夫婦,恋人、親子の情愛を含めた「愛と性と生殖の三位一体」は否定することができないと思う。暴力を排除しようとするあまり、人間の情愛の根幹を捨て去るというのは,極端過ぎるのではないか。
人類が存続しようとする限り、そのマジョリティは、「愛と性と生殖の三位一体」のなかにとどまり続ける必要があろう。もちろん、その枠のなかの存在の様態は様ざまで、ばらつきがあるものであり、一方、マイノリティは,その枠から外れたってかまわないわけではある。
だからといって,暴力を容認するわけではない。私たちが人間である限り、愛のなかに住まい続けるとともに、一方で暴力を抑止する努力は続けなければならないということになる。
虐待やDVや家庭内暴力が止まない現状において、思考実験としての対極を想定してみることに意義はあると思うが、このあたりのことは、ゆっくりと考えを深めていく必要があるだろう。信田氏によるひとつの問題提起と受け止めておくべきところに違いない。
ここから先も、「DV相談窓口と子どもの虐待相談窓口は異なる」(79ページ)という、中央政府から身近な自治体までを貫く縦割り行政の問題とか、ある男性が父が亡くなったと語る,別の女性がようやく母が亡くなったと語る、そこで、良かったねとカウンセラーが応答するという「文脈化」の話とか、ここで紹介したい論点,興味深いお話が続くところだが、後は、直接、著書に当たっていただくこととしたい。
深く考えさせられる書物であった。
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