ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

寺山修司とか、シンデレラとかの魔法みたいなこと

2016-10-28 23:21:16 | エッセイ

 宮城の現代詩2016が届いた。宮城県詩人会の年鑑である。これはサーモンピンクというのだろうか、渋い落ち着いたピンクのカヴァーに、昔話の世界のような幻想的な絵柄。あ、これまでの年鑑とずいぶんイメージが違うと思った。石川かおりさんという方の「ある物語3」という作品のようである。イメージが一新された、というような。

 (実は、本棚を見たら昨年のものから、石川さんの作品で装丁されていた。そちらは深い紺色のカヴァーである。すっかり忘れていたが。)

 その幻想的な表紙をめくると、冒頭は、例によって秋亜綺羅さんの作品。作品の配列が、作者の名前の50音順になっているので、毎年必ず秋さんが冒頭である。「十二歳の少年は十七歳になった」。

 

「季節よ、城よ

 無傷なこころがどこにある

 とランボーは書いている

 

 海が目の高さまでやって来て

 握っていたはずの友だちの手を

 離してしまった瞬間から

 君の時間はずっと止まったままだ」(第1、2連)

 

 と詩は始まる。

 あのとき、経験したこと、それを抱えたまま動き出せないでいる少年。「動かない時計」のように。

 そして、

 

「どんな鳥だって

 想像力より高く飛ぶことはできない

 と寺山修司はいった

 

 傷は癒えていないけれど

 今度はきみが

 青空に詩を描く番だ」(第5、6連)

 

 と終わる。

 

 一読、この詩の魅力にとりこにされた、といっていい。震災以降の多くの詩のなかでも、出色の作品ではないか。少年に優しく寄り添い、いたわり、しかし、静かに次のステップへ促す。説教だとか、無神経な鼓舞だとかでは全くない。言葉も情景としても美しい。秋さんの師ともいうべき寺山修司の世界とも相通ずる叙情があると思う。ランボーにしても寺山にしても、引用が詩の中で見事に生かされている。

 会員の他の作品はまだ読んでいないが、目次をみると、大林美智子さんは「シンデレラ・ストーリーB面」。これも気に入った作品。先日送られてきた今年の宮城県文芸年鑑の文芸賞を受賞している。

 

「磨きぬかれたガラスのハイヒール

 差し出された時には

 背筋に汗が流れたね

 どうしても

 この靴をはけという

 はけたあかつきにゃ

 人生万々歳

 なンの心配もなく暮らせるってサ」(第1連)

 

 軽妙でちょっとはすっ葉な語り口(ちょっと山田詠美みたいな?)。この後には、指を折ったりカカトを切り落としたり、例によって残酷なシーンが続く。

 シンデレラのいじわるな義理の姉たちの側からみたショートストーリー。だからB面になる。

 最終連は、

 

「エイっと

 靴を放り投げた

 靴はキラキラ

 まるい軌跡で

 花畑にころがった

 色とりどりの花畑で

 ガラスの靴は

 魔法のように光っている」

 

 小気味よく、残酷できらきらと美しい「珠玉の短編」のような作品。(あ、これは山田詠美の最新短編集のタイトルでもあった!)

 大林さんは、上品な方で、あんまり「はすっ葉」というイメージはない。ちょっと意外、だったかもしれない。きっぷのよさはあるのかな。

 実は、いま、フランス文学者鹿島茂の「ドーダの人、小林秀雄」(朝日新聞出版社)を読んでいる最中で、小林秀雄といえば当然ランボー、小林のランボー翻訳がどうだこうだというのがこの本の眼目。だとか、いま、本吉図書館の事業として行っている哲学カフェ、今年は子どもの本を取り上げて話し合うということで進めているが、次回11月3日に、取り上げるのが「サンドリヨン」、灰かぶり、つまりシンデレラ。だとか。

 こういうことはほんの偶然に過ぎないけれども、不思議な共時性、みたいなものはあるのかもしれない、とも思う。その不思議さ、このめぐりあわせ、そういうことは信じていた方がいい、のかもしれない。ある意味では、おとぎ話の魔法、みたいに、幸せな結末が待っているかもしれない、みたいなこと。

 話は変わるが、いま、ちょうどNHKのBSで放映終えたばかりの「べっぴんさん」の靴屋のオヤジの市村正親が、ピノキオのおじいさんに見えてしょうがない。おとぎ話の世界に迎え入れてくれる案内人のように。

 


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