どうにも悲しい話題が続く。
私たちが若いころには、歴史は進歩すると期待していたものだ。その当時は悲惨なことがまだ世界に多々残っているけれども、ゆくゆくはその悲惨な状況は改善されると信じていた。悲惨なことはすべて解決して、人類すべてが幸福な暮らしを営めるようになる、とまでは思わなくとも、少なくとも、牛歩のごとくであっても、世の中は改善していく、進歩していく、基本的人権がもっと尊重される社会が実現していく、というふうに思っていた。
そんなのは、幻想だった。
悲惨さは、いまだ、世界のどこにもここにも存在し続けている。もちろん、この日本においても同様である。いや、昨今は、この日本においてこそ特段に、とすら言いたくなる。
ただ、ここで急いで行っておきたいが、だからと言って、私たちが、人類の悲惨さの増大に加担して良いわけはない。悲惨さを少しづつでも減少させる方向に力を尽くしていく必要がある。というのは、私たち自身が幸福であり続けるためにこそ、世の悲惨さをそのまま放っておくわけにはいかないからである。その日々の営みによってこそ、世が悲惨さで覆われつくしてしまうことになんとかぎりぎりの歯止めをかけている、ということなのかもしれないからである。
〈法治と人治〉
さて、東京高検の黒川弘務検事長なる人物の話題である。この2月で63歳到達したらしいから、私と同学年ということになる。
法治の反対語は人治であるらしい。人類の歴史の中で、人治の弊害が途方もない人権の侵害をもたらした反省の上で、近代国家は法治の原則を建てた。詳しい議論は専門家にお願いするとして、この原則は、放っておいてもゆるぎない堅固なものとは言えない。法治は、常に人治に引き戻されていく。
(実は、それは決して、一方的に悪いことだというわけではない。「人間らしい血の通った法の運用」は必要なことであり、それこそが、人治である。血の通わない厳格な法の運用と、血の通った柔軟な人間の判断の両面があり、その緊張関係こそが人間社会の実相というものである。)
法治は常に人治に引き戻されていく。
裁判は、検察官が起訴して、弁護士が弁護して、裁判官が判断するということで成り立つ。この三者は、すべて法曹の専門家である。司法試験に合格した者たちの集まりである。
この中で、弁護士は、血の通った人間の役割を担う、と言えるだろう。裁判官は、人間と法律の間に立って、その都度その都度の問題に、適切な決着をつける役回りである。
検察官は、といえば、つまりは、法治の体現者である。立憲国家のなかでの役回りとして、法治の徹底をこそ追及する役回りである。
一般法と特別法の適用対象の問題は、法学的には基礎の基礎、大原則と言っていいはずである。
弁護士であれば、そこに憲法を持ち出して、一般法と特別法の適用に疑義を呈することはありうるかもしれない。もし、特別法の適用が、基本的人権に照らして大いに議論の余地ありというのであれば、弁護士は役割として、特別法適用の除外を申し立てるべきである、とすら言い得る場合があるだろう。
しかし、検察官が、そんなことをしたらどうだろうか?
〈テクノクラート〉
官僚をテクノクラートというが、これは、テクニックを持った専門家という意味である。土木建築の専門知識をもった官僚や、医師の資格を持つ官僚もいるが、一般の事務官僚の専門性とはなんだろうか?
ひとつは、担当分野の知識、その分野に関わる様々な人々に関する情報を豊富に有することであり、担当の政策を実現するための、知識、情報、能力であるといえる。
そして、その中に、憲法をはじめとする法律についての知識、一国の法体系についての学識、情報、的確な判断力も含まれることは言うまでもないことである。
官僚は、政治家の政策目標を、具体的にどう実現するかが、その役割であり、任務である。実現するためには、一国の法体系の中で、その政策がどう位置づけられるか、ということも、必須の、調査検討されるべきポイントである。法に違反する政策は実現し得ないことはいうまでもない。
実は、現在、官僚の専門性とは、自然科学や工学、技術の専門知識である以上に、法学についての専門知識のことこそをいう、というのがこれまでの流れである。その中で、内閣法制局とか、法務省とか、検察庁の法務官僚にとっては、法学こそが、その官僚としての本分、専門分野であることは紛れもないことであるはずである。
・法務官僚(テクノクラート)としての、検察官の定年の法的な扱いについての見解は?
さて、現在の法務官僚の皆さん、また、検察庁の検察官のみなさんは、今回の定年延長についての法的見解は、いかなるものを持っていらっしゃるのか。ぜひ、聞いてみたいところである。
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