ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

小川和久 日本人が知らない集団的自衛権 文春新書

2015-09-14 00:59:10 | エッセイ

 小川和久氏は、軍事アナリスト。テレビでもよくお見かけする。日本では数少ない軍事、安全保障の専門家、ということになるのだろう。

 カバーの経歴を見ると、「陸上自衛隊生徒教育隊・航空学校終了。同志社大学神学部中退。新聞記者、週刊誌記者などを経て、日本初の軍事アナリストとして独立。」とある。歴代政権の軍事にかかるブレインとして活躍されているようだ。2012年には静岡県立大学の特任教授にも就任されている。

 ページを開いてみると、はじめにから第5章まで、40のクエスチョンを並べ、それに小川氏が答えて行くという形で本が編まれている。いま、問題となっている「集団的自衛権」について、分かりやすく解説する、という形になっている。

 帯の惹句も「国会でも大評判 安保法制のポイントがこれ一冊で丸分かり!」というものである。

 

 「日本の安全を確保するための防衛力の在り方ですが、選択肢は二つしかないと考えてよいでしょう。

 1どの国とも組まず、自前の軍事力で平和と安全を実現する武装中立。

 2アメリカのような国と同盟関係を結び、協力して平和と安全を手にする道。」(10ページ)

 

 1の場合、年間の防衛費は22兆~23兆円かかるのに対し、2であれば現在の4兆8000億円プラスアルファで済むのだという。

 

 「以上を見れば、日米同盟を活用するほうが現実的なのは明らかです。」(11ページ)

 

 ま、これはこれでいい。というか、いま、あえてアメリカと仲たがいしようなどと思うひとはいないはずなので、これまでの敗戦以後の形を大きく変える必要はなく、「日米同盟を活用する」ほかはない、というべきである。(今、現在、あえて、アメリカと仲たがいしようなどと考えるひとは、最大限に見積もって1万人もいないだろう。1億3千万分の1万である。)

 

 「アメリカは日本に同じような姿形の軍事力を持ってほしいとは思っていません。だから、日本の自衛隊にアメリカ本土やグアムまで助けに来てもらおうとも考えていないのです。同じような姿形の軍事力を備えていなくても、お互いにアテになる部分を確認し、それを維持向上させていけば、同盟関係は成り立つのです。/その角度から見ると、日本はアメリカの同盟国の中で唯一、アメリカ本土と同じ位置づけにあるといっても過言ではなく、企業にたとえれば本社機能を担っているのです。他のアメリカの同盟国は、それに対して支店か営業所の位置づけですし、日本の代わりを務められる同盟国はありません。/だからこそ、アメリカは日本を失うと世界のリーダーの座から滑り落ちるという危機感を抱いてきましたし、日本列島に対する攻撃をアメリカ本土に対する攻撃とみなすとさえ言ってきたのです。のちほど紹介するように、尖閣諸島についても同様の厳しい姿勢を中国に突きつけています。このように、日本は…(中略)…アメリカにとって最も対等で双務的な同盟国の地位にあるのですが、それを日本人が理解してこなかったのです。」(12ページ)

 

 なるほど。「最も対等で双務的な同盟国」か。日本が、アメリカから一方的に庇護されているわけではないということだ。お互いにできることをしながら守り合っている。

 別段、属国ではないし、属州でもない。これは、また、ずいぶんと国際社会において名誉ある地位ということになるのではないだろうか。

 (ちなみに、余談だが、といいうより、冗談だが、日本がアメリカの51番目の州になったとすれば、人口1億31千万の最大の州となり、大統領選出についても、重大法案の決定についても、さらに地球的な秩序の維持についても、最大の影響力を発揮できることになる。そんなことになったらずいぶんと面白いだろうな。閑話休題。与太話でした。)

 ところで、上の中略部分は、下記の文言である。

 

 「既に集団的自衛権を十二分に行使している状態にあり」(12ページ)

 

 これは「既に集団的自衛権を行使している」とも解釈できるという話である。小川氏の眼から見たら、そういう状態にあると言ってしまって構わないはずだという意見である。

 「最も対等で双務的な同盟国」であるということは、政府としては、まさしくその通りだ、ということだろう。そして、現在の解釈では、それは別段「集団的自衛権の行使」としてそういう状況になっているとは説明しないはずである。というか、法律が通っていない現在の時点では、「既に集団的自衛権を行使している」などとは、口が裂けても言えないことである。

 個別的自衛権の範囲内での自衛権は有しており、その中で認められる範囲のことをしており、それで「最も対等で双務的な同盟国」でありえているわけである。

 なんか、そうであるというなら、それでいいのではないだろうか?あえて、その状態を変える必要があるのだろうか?

 そういう状態に既になっているのであれば、いま、あえて集団的自衛権などと言い立てる必要はないのではないか。このまま、(ある意味のらりくらりとかわしながら)仲良く付き合い続けていればよいのではないか?

 もちろん、侵略行為に対しては、自衛の行動は取るべきである。その意味でも全く交戦しないなどということはありえない。自衛に必要なことは、必要な範囲で整備に努めていく必要がある。これは、個別的自衛権しか認められないのだ、という解釈のなかでできることではないだろうか。

 さて、小川氏は、「ジャッカルの日」などのスパイ小説で有名なフレデリック・フォーサイス氏と意見を交わす機会があったという。

 

  「私が第1章で述べたように、アメリカにとって最も双務性の高い同盟国である日本の実情を説明したところ、聞いていたフォーサイス氏はいいました。

  「アングロサクソンの思考様式で行動するアメリカは、敵に対してはいきなり拳を突き出すようなことをします。しかし、日本のような重要な同盟国が国益に沿ってアメリカに対して『ノー』と言っても、怒ったりはしません。真剣に耳を傾け、日本側からの対案がリーズナブルであれば、それを受け入れるのです。日本は戦後ずっとアメリカと付き合ってきたというのに、きちんと話をすることができていないようですね。」」(205ページ)

 

 ところで、フォーサイス氏は、イギリス情報局のスパイを長年務めていたと、最近報道されていた。

 日本の政治が総体として、小川和久氏がそうであるように、きちんとした理路を持ちつつタフなネゴシエーターであれば、これまでのような立場を維持していくことは可能なはず、ではないだろうか。

 いま、あえて、集団的自衛権などという言葉を持ち出す必要はないのではないだろうか?

 さて、私自身は、どんな考え方なのかというと、非武装中立、というよりも、世界全体が平和であることは希求されるべきことは間違いない。それは、言ってみれば永遠の理想である。その旗を降ろす必要は全くない。

 しかし、かといって、武力を一切持たなくていいかといえばそんなことはない。最低限自衛に必要な戦力、武力は保持すべきであろう。当面保持すべき、なのではあるが、この「当面」が、来年とか10年後とか20年後とかの具体的なタイムスケジュールに載ってくるような時期ではありえない。私が生きているあいだに廃止できるなどということはありえないだろう。

 憲法については、基本的人権、国民主権、平和主義の大原則を堅持したうえで、改憲もありうる。むしろ、現在の自衛隊を、当面維持することを明示したような改憲であってよいと思う。他に、地方自治のこととか、もっと書き加えていいようなところもあるわけである。「リベラルな改憲」ということを言いだしているひともいるようで、それは悪くないと思う。

 ただ、そうだな、一方で、当面改憲はしないですます、ということも充分にありうる選択肢だとも思っている。まさしく現時点での現状ということからいうと、改憲は危険が大きいということかもしれない。

 武力というものが、対外的な敵、外国に対してのものであることはもちろんである。特に自衛隊が、外部からの侵略者に対して対抗しようとするものであることは論をまたない。

 しかし、この武力というものが、国民に対して向けられる、などということがあったらどうだろう。そんなことは、いまの日本ではありえない、はずである。しかし、歴史を見れば、軍隊が、外国の敵ではなく、国内の市民に差し向けられたということがある。これも否定できない事実である。

 軍隊を指揮する為政者が、その矛先をわが国民に向ける、ということは、歴史上あったことである。可能性はある。強盗、テロリストの武器と、統制された軍隊の武器は実際のところ区別できない。だからこそ、憲法は、為政者の権限を制限してきた。

 武力が、外国の敵にのみ向けられるのではなく、万に一つ以下の確率ではあっても、国民に向けられる可能性はある、それがそうはならないような歯止めをきちんと制度の中に組み込んでいかなくてはならないということは、歴史の経緯を踏まえれば自明の理である。

 それと、もうひとつ言っておきたいことは、戦前の大日本国憲法と現在の日本国憲法を比べたとき、憲法として、どちらが優れているかと言ったら、もう議論の余地はない、というくらいにあからさまなことである、ということ。現に権力を握ってしまっている立場であれば、議論の余地もあるかもしれないが、一般国民にとっては、議論の余地はないことである。条文を読んで見れば明らかなことである。

 そもそも憲法など不要であるという主張のひとにとっては、戦前の方が「よりまし」である可能性はあるが。

 と、まあ、そういうことで、日本の政治全体が、小川和久氏のような理路のとおったタフなネゴシエーターであれば、いまの憲法や、憲法解釈を変える必要はなく、むしろ、手かせ足かせをはめられた現状を、対米、のみでなく、世界に対して、有利に活用していける、ということになりそうな気がする。ということを、この本を読んだ感想ということにしておこう。

 しかし、わたしも、このタイミングで難しい本を読んでしまったものである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿