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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

村上靖彦 客観性の落とし穴 ちくまプリマー新書 2023

2023-12-24 14:42:36 | エッセイ オープンダイアローグ
 村上靖彦氏は、大阪大学大学院人間科学研究科教授、東京大学教養学部から大学院、パリ第七大学で、現象学、精神分析などを修められたようである。
 現象学は、フッサールが興した哲学の一派で、デカルトの懐疑を基底に、大雑把に言えば、ハイデガー、メルロ=ポンティ、サルトルなど後の実存主義につながるものである。
 ちくまプリマー新書は、学問、教養への入門編というか、高校から大学一般教養レベルということになるのだろうか、しかし、この『客観性の落とし穴』という書物はなかなかに深い問題提起となっていると思われる。私としては、全面的に同意できる内容である。

【働かざる者へのバッシングと、グローバルな均一の尺度】
 まず、「はじめに」から読んでいくと、生活保護についての学生からのコメントについて、こんなことが書かれている。

「貧困について議論していた授業で、生活保護をめぐってこんなコメントが来たことがある。
「働く意思がない人を税金で救済するのはおかしい」」p.10

 ここで「働く意思がない」ということが、「ずる賢い怠け」でしかないと解釈すれば確かに「おかしい」という反応はあり得ることであろうが、ものごとはそう単純ではない。さまざまな状況がありうる。あまりにも単純化してものを見るというのは浅慮に他ならない。
 氏は、続ける。

「一見すると、客観性を重視する傾向と、社会の弱い立場の人に厳しくあたる傾向には、直接の関係はなさそうだ。しかし、両者には数字によって支配された世界のなかで人間が序列化されるという共通の根っこがある。そして序列化されたときに幸せになれる人は実のところはほとんどいない。勝ち組は少数であるし、勝ち残ったと思っている人もつねに競争に脅かされて不安だからだ。」p.11

 グローバルな単一化された尺度の、どこかに位置づけられ序列化された人間の上位30%に入ったとして、あるいは、1%だとしても人間は幸福になれるわけではない。もっと上、もっと上と急かされ、逆にまた、いつ蹴落とされるか不安にさいなまされる。客観的な数字は、得てして人を追い詰める。
 逆に、序列など関係なく、人間は幸福でもあり得るのである。

【当事者の語りとエビデンス】
 さて、氏は「医療現場や貧困地区の子育て支援の現場で…インタビューを」続けているという。

「私の研究は、困窮した当事者や彼らをサポートする支援者の語りを一人づつ細かく分析するものであり、数値による証拠づけがない。そのため学生が客観性に欠けると感じるのは自然なことだ。一方で、学生と接していると、客観性と数値をそんなに信用して大丈夫なのだろうかと思うことがある。「客観性」、「数値的なエビデンス」は、現代の社会では真理と見なされているが、客観的なデータでなかったとしても意味がある事象はあるはずだ。」p.7

 エビデンスである。このところ、エビデンス批判派とエビデンス擁護派が激しく対立して対話不可能な状況に陥っているのではないか、などというのも極論だろうが。

「とりわけ気になるのは、数値に重きが置かれた結果、今の社会では比較と競争が激しくなったのではないか、ということだ。」p.8

 生活困窮者への厳しい視線は、現在の若者たちに強いられたものかもしれない。

「こういった社会への厳しい視線は、学生自身を苦しめている。なぜなら、自分自身を数字に縛りつけて競争を強いるからである。」p.12

 もちろん、氏は、客観的な科学そのものを否定したいわけではない。

「とはいえ数字を用いる科学の営みを否定したいわけではない。数字に基づく客観的な根拠はさまざまな点で有効であるし、それによって説明される事象が多いことは承知している。」p.12

 だが、しかし、

「それでも、数字だけが優先されて、生活が完全に数字に支配されてしまうような社会のあり方に疑問があるのだ。数字への素朴な信仰、あるいは数値化できないはずのものを数字に置き換えようとする傾向を問い直したい。」p.12

 これは、まっとうな問題意識である。

【ベンヤミン、あるいは〈統計的な平均値〉と〈経験の個別性〉】
 さて、「本書前半は客観性と数値化がテーマとなる」p.12ということで、目次をみると、第3章は「数字が支配する社会」、第4章は「社会の役に立つことを強制される」であり、「優生思想の流れ」などという節もある。
 それに続いて「後半は、客観性と数値化への過剰な信仰から離れたときに、では、どのように考えていったらいいかを提案する」p.13ものである。
 そこで、氏は、「統計的な平均値や多数項として取り出された一般性は普遍的なものではない」として、第二次世界大戦の際、ユダヤ人であったがゆえにナチスに追い詰められた果てにスペイン国境で自死したドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの著作「ドイツ悲劇の根源」から、次のように引用している。

「経験的なものは、それが極端なものとしてより精密に識別できるものであればあるほど、それだけ深く、その核心に迫りうるものとなる。概念は、この極端なものに由来する。」p.146

 肝要なのは、統計的な平均値ではないのだ。(いや、統計的な平均値が意味をなす場合も、もちろんあるのだが。)
 個別の体験を重視することは、人権を重視し、あらゆる人を尊重することに通じていく。
 氏は、自らの仕事の経験に立って、次のように語る。

「私は医療福祉現場で長年にわたって調査を行ってきて、実は経験の個別性がもつ真理は、他の誰にとっても真理であるのではないか、と感じている。弱い立場へと追いやられた人の経験はつねに意味を持って響いてくるからだ。…。
 この倫理的な普遍は「人権」と呼ばれるものと重なることとなる。個別の経験を尊重することは、あらゆる人を尊重することを意味する。誰も取り残されない世界を目指すということにつながるのだ。」p.148


【誰も取り残されない世界の実現】
 氏にとって「誰も取り残されない世界」は絵空事ではない。基本的人権が擁護される社会である。それは、「全国で静かにうまれつつあるのではないか」と見通しを述べる。

「ケアを軸としたコミュニティでは、成果主義と序列化のなかで排除された人の声が伝わる道筋がある。声にならないSOSをキャッチし、生存が可能になるような道筋を考え出す。さらに、見えないすき間で困窮している人を探し出す。もちろん、その前提としてマジョリティの位置にいるある人が自らの特権に自覚的になるということも必要になる。」p.151

「おそらく、私が西成でかいまみたようなコミュニティが全国で静かに生まれつつあるのではないだろうか。…あるいは、子どもと高齢者を区別することなく困りごとを見つけ次第誰でもサポートする団体もいくつかある。…二一世紀に拡がってきたコミュニティにはある共通の性格がある。抑圧的な規範や経済的な価値によって組織するのではなくそれぞれの声と小さな願いごとによって結びつくようなコミュニティだ。」p.161

 そういう世界の実現のために、小さなコミュニティにおける自助に飲み頼るのではなく、国家の大きな政治の役割があるという。

「逆に国家は私たちが生きることをサポートする義務を負う。大文字の政治がなすべきことは大きい。そして大文字の政治においてこそパラダイムチェンジが必要だろう。このとき、一人ひとりの声から出発してボトムアップでうまれる小さな社会の理念は、大きな制度を変えるためのモデルとなるはずだ。」p.162

「それゆえ、大きな制度について根本的な改善点を指摘しておきたい。今の福祉制度は年齢制限や障害の等級で支援を区切るため、不可避的に「すき間」に追いやられる人を生む。このすき間を生まない制度設計はぜひとも必要であろう。」p.163

 ここでは、その項目のみ呈示し、その詳しい説明は、書物にあたってもらうこととする。
  • 制度的な排除と抑圧を解除する
  • 誰も取り残されない社会、誰もが生活に不安を持たずにすむ社会を目指す
  • ケア労働を正当に評価する

【経験とエビデンス、科学と現象学】
あとがきで、氏は次のように書く。

「客観性や数字を用いる科学は不要だと主張しているわけではなく、「真理はそれ以外にもある」「一人ひとりの経験の内側に視点をとる営みは必要だ」とつぶやきたいだけだということはご理解いただけたら幸いである。決して既存の科学そのものを批判する意図があるわけではない。」p.174

 エビデンスを求めるのみが科学ではない。むしろ、科学とはエビデンスの根底を問うもののはずである。このときの科学は哲学に基礎づけられているというべきであり、氏の現象学の学びはここで生かされていることになる。
 私の理解によれば、エビデンスを求める思想は、デカルトの懐疑主義に由来するというべきであり、現象学の始祖フッサールは、後のデカルト主義者を自称し、エビデンスの根底をこそ徹底的に洗い出したというべきである。

「直截的には私が出会った困難の当事者のみなさんや対人援助職の皆さんに教わったさまざまな「経験」と「語り」こそが、本書の出発点である。
書き終わってみると、本書は「私にとっての現象学入門」ともいうべき性格を持つことにもなった。ただしこの「現象学」は古典を読みこむ哲学史研究ではない。フッサールとメルロ=ポンティからインスパイアされつつ、私たちのグループが自分たちでデータを取りながら自力で進めている生き生きとした現象学実践のことである。」p.175

 現場での、つまり臨床の哲学、現象学と、現状を変えていこうとする福祉、ソーシャルワークが結びついてくるというのは、私として本懐ともいうべきところである。オープンダイアローグの基礎論となるところがあると思う。


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