毎日、手帳にメモを取るようにしていますが、長続きしません。
何を書いているかといいますと、行事予定や買い物、訪問したところなどですが、後で読み返してみると、毎日が何となく過ぎているようでも、小生にとってはとても大事なことのように感じられます。
かっては、仕事が一番重要だと考えていたはずですが、畑を耕して、家族の健康を心配して、近所の行事に参加して、そして、友人との交流などに心を砕くことなどは、もっと有意義なものだと思えるようになりました。
そういう意味では、わが家も「渡る世間は鬼ばかり」のようなことがおこりつつあり?「のんびり夫婦で海外旅行」などといっている場合ではない、と考え込むこともあります。
でも、人生、そう長くはないはずです。自分が元気なうちに好きなことをやっておきたいものです。
そんなことを考えていたら、五木寛之さんの「人間の覚悟」を思い出しました。
五木さんは、1945年の夏、中学一年生で、現在の北朝鮮の首都、ピョンヤン(平壌)にいたそうです。
平壌がどのような街で、どうして自分の父親が北朝鮮にいたのかなどを述べています。そして、1945年の夏に日本が戦争に敗れたのですが、日本の国民の大部分は、最後まで日本が勝つと信じていたそうです。
そして、一般市民は、敗れた後の行動について当時のラジオ放送「治安は維持される。日本人市民はそのまま現地にとどまるように」を信じて現地にとどまったそうです。
ところが、敗戦の少し前から、高級軍人や官僚の家族たちは、平壌の駅から相当の荷物をたずさえて、延々と南下していたのだそうです。
ソ連軍の戦闘部隊が進駐してからのしばらくは、口にだせないような事態が日本人慰留民をおそい、五木さんの母親も混乱のなかで残念な死に方をしたそうです。
ここで、五木さんがいいたいことは、次の文章に表れています。
『私たちは二重に裏切られたのである。日本は必ず勝つといわれてそれを信じ、現地にとどまれといわれて脱出までの苛酷な日々を甘受した。
少年期のその体験にもかかわらず、いまだに私自身、いろんな権威に甘える気持が抜けきれないのだ。
愛国心は、だれにでもある。共産主義下のソ連体制を徹底的に批判し続けたソルジェニーツィンも、異国に亡命した後でさえロシアを愛する感情を隠そうとしなかった。
どんな人でも、自分の母国を愛し、故郷を懐かしむ気持はあるものだ。しかし、国を愛するということと、国家を信用することとは別である。
私はこの日本という国と、民族と、その文化を愛している。しかし、国が国民のために存在しているとは思わない。国が私たちを最後まで守ってくれるとも思わない。
国家は国民のために存在してほしい。だが、国家は国家のために存在しているのである。
私の覚悟したいことの一つはそういうことだ。
私たちは国家・・・
国を愛し、国に保護されているが、最後まで国が国民を守ってくれる、などと思ってはいけない。国に頼らない、という覚悟を決める必要があるのである。』
ということで、五木さんのいう覚悟とは、「国に頼らない覚悟」のようです。
でも、この言葉からは、国など信用するな!ともとれますが、そうではないといっています。
『国民としての義務をはたしつつ、国によりかからない覚悟。最後のところで国は私たちを守ってくれない、と「諦める」ことこそ、私たちがいま覚悟しなければならないことの一つだと思うのだ。
こんなふうに主張すれば、さしずめ何かを信じるのはやめよう、と提案しているように思われそうだ。
だが、そうではない。私は不信のすすめをのべているのではなく、むしろ逆の、人間の覚悟について語っているのである。』
国は私たちを守ってくれないので、自分のことは自分で守るしかない、という覚悟が必要なんだ、といいたいのでしょうか?
さて、この後に五木さんは、親鸞の言葉を引用しています。
親鸞については、小生も若いころから興味があり、親鸞を書いた書物をいくつか持っています。
中でも「歎異抄」を読んでみたくて、挑戦したのですが、自分の人生に五木さんのような苛酷な時がなかったためか、親鸞の心が自分のものになっていません。
でも、こうして五木さんから、またもや「歎異抄」の素晴らしさがでてきましたので、再挑戦するしかないですね。
五木さんは、このページで親鸞の言葉として、
「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり、たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
を引用して次のように解説しています。
『自分の信心に、特別な極意などはない。師である法然上人のいわれたとおりに信じて、ついていっているだけだ、というのである。その後につづく言葉は、おそらく目にした人は絶対に忘れることのできない文句だろう。
自分が法然の言葉を信じてついていき、もし師に欺かれて地獄におちたとしても、自分は決して後悔したりはしない、と親鸞は断言するのだ。
「地獄は一定すみかぞかし」
すなわち、自分がいまいるのは、悟りすました解脱の世界ではなく、常に人間としての生きる悩みにとりかこまれた煩悩の地獄である、というのが親鸞の覚悟である。』
だから念仏を信じ続けるのだ、師、法然を信じるのだ、ということになりそうですが、これくらい信じることができる師がいれば、たとえこの世が煩悩の地獄でも幸せなのかも知れませんね。
小生には、法然のように信じられる人がいるでしょうか?
そして、地獄の煩悩に取り囲まれているはずですが、あまり感じられません。自覚が足りない、ということでしょうか。
五木さんは、「法然のような師をもち、この世は地獄の煩悩である、」だから「国などあてにしないで自分で生きる」覚悟をしなさい、といいたいのでしょうか?
健康に悩み、家族に悩み、昇進に悩み、仕事の出来に悩み、人間関係に悩み、お金に悩み・・・なるほど、この世は煩悩の世界ですね。
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