五木寛之さんが書いた「人間の覚悟(新潮新書)」という本を読んでいます。
なぜ、この本を買ったのか、ですが、本屋さんで最初の「序に代えて」を読んでみたら、内容がよく分からないのです。
でも、これからの人生をどう生きようかという指針の役割をしてくれのではないかとも感じたのです。
まず、ぞの「序に代えて」を読んでみましょう。
『そろそろ覚悟を決めなければならない。最近、しきりにそんな切迫した思いが強まってきた。以前から、私はずっとそんな感じを心の中に抱いて、日を過ごしてきていた。しかし、このところ、もう躊躇している時間はない、という気がする。
いよいよこの辺で覚悟するしかないな、と諦める覚悟がさだまってきたのである。
「諦める」というのは、投げ出すことではないと私は考える。「諦める」は、「明らかに究める」ことだ。はっきりと現実を見すえる。期待や不安に目をくもらせることなく、事実を真正面から受け止めることである。』
五木さんは、覚悟とは、諦める覚悟であるといい、諦めるとは、投げ出すことではなく、「明らかに究める」と言っています。
そして、その「諦める覚悟」をするときがきた、といっていますが、現実を見据えて事実を真正面から受け止めとるとは、どういうことでしょうか?
そこで、次の文章に進みたいと思います。
『では、「諦める」ことで、いったい何が見えてくるのか。
「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」
と魯迅はいった。絶望も、希望も、ともに人間の期待感である。その二つから解き放たれた目だけが、「明らかに究める」力をもつのだ。
しかし、私たち人間は、最後までそのどちらをも捨てることはできない。はっきりいえば、
「諦めきれぬと諦める」
しかないのである。
とはいうものの、ギリギリの点まで、「明らかに究めるまで」努力を捨てたくはない。
希望にも、絶望にもくもらされることのない目で周囲を見わたせば、驚くことばかりだ。そこで、覚悟する、という決断が必要になってくるのである。
私たちは無意識のうちに何かに頼って生きている。
「寄らば大樹の陰」
とは昔から耳になじんだ諺だ。
しかし、もうそんなことを考えている段階ではない。私たちは、まさにいま覚悟をきめなければならない地点にたっているのである。』
と述べていますが、残念ながら、小生には、五木さんが何を言いたいのか理解できていません。
ということは、小生の目が「希望や絶望にくもらされている」ということでしょうか。
また、「人間の期待感である希望と絶望から解き放たれた目」とはどんな目なのでしょうか?さらに、そういう目には、なれないのが人間であると言っています。
そして、「くもらされていない目」で周囲を見ると、どんな驚くことが見えてくるのでしょうか?
これから、この本をじっくり読んでみたいと思います。
今日は五木寛之さんの「人間の覚悟」についてお伝えしました。
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