はかなきと 見えてくづれぬ 野の月を うらみぬきてぞ 人はかなしき
*「ぞ」~連体形の係り結びですが、こういうのはやりこなしていくと自然にできるようになりますね。練習というのは大事だ。繰り返しやっていくうちに染み込んでくるように身について来る。
自分が向上していくのは楽しいでしょう。
これを書いているのは一月の中旬です。昨日は久しぶりにある短歌の団体に挑戦状をつきつけてみました。一夜明けて、答えが返ってくるかと見てみましたら、やはり返ってはいませんでした。
できないのでしょう。沙羅がいくつか例作を作ってくれましたが、それにならって何らかの歌を詠ってくれた人はいたらしいのです。しかしそれらはその団体の優れた人の作ではない。代表者はすぐに逃げたらしい。
どうもね。何でそんなことになるかというと、自分を高くしすぎているからです。普段から偉そうにしすぎているのでしょう。無名の歌人から挑戦されたら、それを上回る歌を詠わねばならないのだが、それができない。
だから無視黙殺するよりしかたがないのだが。
それをみんなに見られている。
世間はどう思うことでしょうね。
結局この世界の今は、嘘ばかりなのだ。巌のごとき真実はなく、はりぼてのような建前だけを着飾って、いかにもよいもののように見せているだけなのだ。だから、真実をつくようなことをされては、何もできない自分をさらすだけなのだ。
それはそれとして、表題の作に行きましょう。
はかなくよわいから、すぐに馬鹿になると思っていた人が、予想以上に手ごわくて、全然崩れないのを、恨みぬいた人ほど、かなしいものはない。
馬鹿だったらよかったのに、馬鹿ではなかった。予想以上に高く、硬かった。みごとに美しい人だった。その真実を認められず、恨みぬいて全部をだめにしてしまった。
人間というものは、自分を馬鹿だと思い込んでいるものですから、なにもかもが馬鹿だと思いたいのだ。それでないと激しく自分がつらいのです。
なにもかもが馬鹿でなければ、馬鹿なことをしている自分が苦しすぎる。だから影でずるいことをして、自分より優れていると感じた人を巧妙につぶしたりなどするわけだが。
そんなことをして自分が向上するわけがない。痛いところをつかれれば、崩れるのは自分の方なのだ。
すぐれて高い人は、本当にいるからです。