しらたまの わがこかはゆや ともにゐて 深きえにしの かはの声聞く
*「しらたまの(白玉の)」は「わが子」にかかる枕詞ですね。定番ですがいちいち押さえていくのがここのやり方です。勉強というのは繰り返すことで深まっていくものです。一度や二度言っただけでは勉強にならない。
同じことを繰り返すのではなく、その時々に手を変え品を変えして工夫しつつ、繰り返し教えていく。教育者ならわかるでしょう。そういう辛抱強い態度が、教え子の心に響き、みなの教養を厚く深めていくのです。
そういう意味で、かのじょは教育者と言う面では少々痛いところがありましたね。あれは教育者というより学究の徒の態度です。そうしつこく繰り返し教えてはくれない。それくらいのことは自分で調べろと言う感じで、すぐに行ってしまう。もちろんそれは正しいのだが、教えてもらう者にとっては少々寂しいということがないでもない。
教師というものは、少々しつこい、うざいと教え子に感じられるほど、何度も繰り返し教えねばならないものです。
そっちのほうがありがたいのだが、なぜか人間というのは、かのじょのようなタイプを追いかけるのだ。あまりにも美しいからです。人間というのは、ああいう澄んだ目をした学究の徒が好きなのだ。
つれないというか、自分を軽く無視していく女ほど、追いかけてしまう。
まあそれはそれとして。
表題の歌はこういう意味ですね。
わが子というのは実にかわいいものだ。一緒にいると、深いえにしの流れる川の音が聞こえる。
川の音と表現したのは、日々流れていく暮らしの中で、たびたび、わが子との間に、深い縁を感じる出来事を見るからです。あなたがたにもありませんか。我が子を見て、この魂に昔あったことがあると感じるようなことが。こいつ知っているぞ、と感じるようなことが。
もちろんそれは、遠い昔からともにこの世で生きてきた、縁の深い魂だからです。
ソウルメイトなどという言葉も最近ではありますね。
人間にはこれまで、深くかかわってきた霊魂がいるのです。その深くかかわって、互いを知っているということがうれしい。何度もともに生きてきて、その人の癖やいろいろなことを知っているということが、愛をかきたてる。
なんでもしてあげようと思う。
愛というのはそうして、みながたがいのためにやってきたことの記憶の奥から起こってくるものです。
この縁起の世界は、そういう愛の流れから起こってくるのです。
あなたがたがかのじょを愛したのも、かのじょとの間に、霊魂の深い記憶があったからなのです。
それがえにしなのです。