蟷螂の おのが身をとふ ちひさくも よき鎌ありて よきわれを知る
*「蟷螂の斧」ということわざにかけて、「蟷螂の」を「おのれ」を呼ぶ枕詞のように使ってみた作例です。
取るに足らないものという意味でつかわれることわざだが、たとえ小さくてもそれは自分にちょうどいい鎌で、あることが自分らしくてすばらしくよい。そういう意味の歌です。
確かに蟷螂の斧は、蟷螂が生きるためにはとても役立つものなのだ。花の影にかくれて、ふらふらと寄ってきたちょうちょなどをとらえるのには実に役に立つ。あなたがたも見たことがあるでしょう。カマキリがちょうちょをとらえるときのすばらしい技を。目を見張るほどの速さで、あっという間に見事にとらえる。
車軸や城壁などにぶつかっていくから、馬鹿になるのだ。かまきりはかまきりらしく、野原の隅の花の影などにいれば、立派に美しく自分を生きることができる。
神はそれぞれに、自分にちょうどいいものを与えてくださっているのです。
本当の姿とはそういうものだ。
だが人間は時に、神が与えてくれた正直な自分の姿を嫌がり、勝手に自分の姿を改造することがあるのです。
霊的技術でね、まるでサイボーグのように、自分を理想的な形にしたがるのだ。足を長くしたり、顔を流行の美形にしたり、美しい髪を盗んで自分につけたり。そうして恐ろしく完璧に見える美形を作ったりするのだが。
それがあまりにもおかしい。やっていることは、美人の尻を見ているくらいのことなのに、姿かたちはまるで天使なのだ。天使がどんなことをしているか、彼らはまるで知らないのだ。ただ自分がいやで、限りなく美しくなりたくて、馬鹿みたいな美形をつくり、それに自分がなるのです。
蝶を狩ることくらいしかできないのに、城壁も崩せるブルドーザーのような鎌を自分につけたりするようなものだ。何もできないのに、かたちだけはみごとに立派なのだ。
それがとても恥ずかしいことなのだと、人間もようやくわかってきた。
感性が進歩した人間にはもう、馬鹿どもが作った人工的な美形が、とてつもなくおかしなものに見えるのです。
人間を漫画のようにしてしまっている。見栄えで人を馬鹿にするために造った美形は、ひどく醜く見える。美しいつもりで作った完璧な形が、おそろしくいやらしいのです。
人間も蟷螂も、神がつくってくださった自然な形が一番いいのです。自分というものがわかる。それがどんなに不細工でも、そっちのほうがずっと美しいのだ。
もう人間も、少しずつ、本当の自分の姿に戻っていくでしょう。