村肝の 心に清き みづありて 玉のごときの 魚あまたすむ
*「村肝の」は「こころ」にかかるまくらことばですね。一応こういうことはいちいち抑えておきましょう。わかっていても、繰り返しおさえていくことが勉強を深める。人のこころは「肝」にあると昔考えられていたかららしい。たしかに心がつらいときは、肝(内臓)がしぼられるような感じがするものです。痛みがあるところに心があると、昔の人は考えたのか。
「むら」は何かが群がっていることを表すことばだ。自分の中に何か苦しいものが群がっている。そういうことを感じることがありますね。そういう心のはたらきというものを、なんとなく「むらきも」と言ったのか。「むらくも」と通じるところが、人の、自分の心に対する感じ方を表現しているようで、おもしろい枕詞です。
表題の歌は、昔かのじょが見た夢に材をとっています。一度ブログでも語ったことがあるのではないでしょうか。
自分の心の中に、とてもきれいな泉があって、その中にはとてもきれいな魚がたくさん泳いでいた。誰かがそこにきて釣り糸を垂らして魚を釣ったが、その魚が盲の小さな魚だったので、その人は泉を馬鹿にして去っていった。
もう一度釣り糸を垂らしてくれれば、もっと大きくてきれいな魚が釣れたかもしれないのに、その人はたった一匹の魚だけで、全部を判断して、行ってしまった。
それがとても悲しかったという夢でした。
ご承知のとおり、かのじょはとても豊かな才能をもっていました。しかし生前、それを認めてくれた人はほとんどいませんでした。いえ、皆無と言っていいほどだった。ただひとりだけが、かのじょの処女小説に対して、本当のことを言ってくれただけだ。
それは地方の小さな同人誌の主宰者でしたが。その人の率直な意見も、誰も聞いてくれなかった。
馬鹿な人たちは、ただ美しいというだけで、かのじょのすべてを否定したかったのです。ですから、たった一匹の盲の魚くらいのことで、かのじょを全否定し、拒絶したのだ。拒絶どころではない。この世界で最もいやなものにしようとして、あまりにもえげつないことをした。
たった一匹の盲の魚とは何でしょう。それは襟から出ていたたった一本のほつれ糸だとか、袖についていた小さな汚れだとか、それくらいのものだ。
そんなことでその人の人格を全否定するのが馬鹿というものなのです。
どんな美しい立派な人でも、目を皿のようにしてあらを探すのだ。それでなければ自分が苦しいのです。あからさまにひどいことをしている自分がつらくてならないのだ。
馬鹿な人たちのかのじょへのいじめは狂っているとしか言いようがなかった。醜いなどというものではなかった。何も悪いことはしていないというのに、平気で、地獄に落としてやる、というのだ。
永遠に忘れることはできない。
もうあんな馬鹿どもは二度といやだと、神さえ思うようになるまで、あれらは恐ろしい馬鹿をやり続けた。
一体彼らのこころには、どんなものが群がっていたのか。
想像したくもない。