ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

歯は抜けて

2017-07-21 04:19:01 | その他





歯は抜けて 痛き憎悪の 小ささよ     夢詩香






*これは2月の下旬に書いています。ほんのさっき、歯が抜けたので、こう詠んでみました。前々からぐらついていて、時々神経に触って痛い思いをさせられた歯なのですが、抜けてみると、実にそれが小さかったので、すこし驚いたのです。

口の中にあるときは、それは常に嫌な痛みをもたらして、いらだちの元だったので、半ば自分のものとはいえかなり憎らしく思っていたのだが、くらりときてすっと抜けてみると、なんと小さい。まるでビーズのようだ。

女性の骨格は小さいですし、特にかのじょはあまり顎が発達していませんから、よけいにかわいらしい。黄味をおびた真珠色をしている。欠けたところに銀色の金属が充填してあるのが、なお愛らしい。

かのじょの口の中にあって、小さくもいじらしい仕事をしてきたのだ。それがぐらついてきて、悲しい歯痛の原因ともなってみると、痛く憎悪を起こす種になって、想像の中ではオバケのように大きなものになっていたが。

手にとってみると、実に軽い。まるで木の葉のようだ。

こんなものを憎んでいたのかと思う。

憎悪というのは、たいていそういうものでしょう。自分の苦しみの元になる存在という者は、いつも異様に大きく感じるものだ。倒してしまわねば自分の安楽はない相手というのは、常に自分の恐怖によって大きく膨らんでくる。様々な想像を重ねて、馬鹿に汚く嫌なものになってくる。

口の中にあって見えない時は、この歯がこんなに小さく愛おしいものだとは思わなかった。

あなたがたにとってのあの人も、そうだったでしょう。あの人が生きていて激しく憎んでいた間は、あの人がとてつもなく大きなものに思えた。すごいものだと思っていた。だが死んでしまい、その正体がわかってみると、それはあまりにもかわいらしかった。

真実の姿というものは、なくしてしまって初めてわかるのだ。いつでも人間というものは、その最中には、自分のいる世界の実像がわからない。

抜けてしまった歯はもう痛まない。だが、その歯のなくなってしまった後の口の中というのは、痛く寂しい。

この肉体はもう彼のものだが、抜けてしまった歯には、かのじょの霊の匂いが深くしみついています。かのじょの歯だと言っていい。

恋しさをぬぐえない人は、形見とするといいでしょう。







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高丘

2017-07-20 04:19:54 | 短歌





草を負へ 草を集めよ をのこらよ 高丘目指し いざ群集へ






*これは読めばわかる人もいるでしょう。前に別館のつぶやきでも紹介されていましたが、アルタイルの歌です。彼はこういう感じの人だ。技巧に凝るということが愚かに思えるほど、単純でまっすぐに詠む。それがとてもいい。

歌というものは、ほかのことでもそうですが、自分らしいということが、一番いいものですよ。この作品には、すっぽ抜けてしまうほど明るい、アルタイルの心がよく表れている。

わたしたちが愛してやまない、あの好漢の心が見える。

あの人はこういう風に、芯から明るい素直な心で、男たちを導いてやろうとしているのです。男の誠というものを、信じ切っている。そしてその男というものを、美しくしていくために、全霊をかけて行動して、後悔したこともない。馬鹿にされてもされても、何度でもやってくれる。

情熱というよりは、そうすることしかできない存在の、愛そのものというべきでしょう。


したたり止まぬ日のひかり
うつうつまはる水ぐるま


これは室生犀星の「寂しき春」ですが、彼の心はまさにこんな感じなのだ。人間の心が寂しく感じるほど、単純で愛らしい愛なのです。

もっといやらしいことでもやってほしいのに、そんなことなど絶対にやってくれない。ただ愛してくれる。ほかには何もない。それだけでも満ち足りることはできるが、人間というものは、そういう愛の前に、時々寂しさも感じるのです。彼は美しすぎて、人間の陰には触れてはくれないからだ。

まだたくさんの陰をひきずっている人間には、そういう影をきつくいじってくれる、アンタレスのような愛が心地いい。そういう感じもあるでしょう。

だが、アルタイルほど、まっすぐに人間を愛してくれる男はいない。真芯から、人間を信じてくれる天使もいません。一番痛い時には、この人が必ず最も大事なことをしてくれるのです。

やらねばならないことをやらねば、痛いことになりすぎるというときに、真っ向から来てくれる。

愛とは。

あらゆる羽があるものだ。

あなたがたは、あまりに豊かな世界に生きているのですよ。







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ひきしほの月

2017-07-19 04:19:33 | 短歌





せりあぐる 虹をかぶりて ひきしほの 月は総身に まことを浴びぬ






*少し前から、かのじょが残した詩の言葉を歌に詠みかえるということをやっていますが、これもそれです。本館の「ちこりの花束」の中にある詩ですね。かのじょが同人誌の片隅に記してあった詩です。「愛」という詩ですが、同人誌発表の折りにはタイトルはありませんでした。ブログに発表する折りに、試練の天使がつけたのです。

興味ある人は探してみてください。詩の方は、かのじょの愛に関する思想のかけらを一つちぎって出したような感じですが、歌にしてみれば、かのじょの後の運命を語るようなものになっている。もはやあの頃から、この運命は決まっていたかのようです。

大地の向こうからせりあがって来る虹をかぶり、引き潮のように下がっていく月が、どうしようもない真実を総身にかぶってしまった。

虹というものは、彼試練の天使の性格を表現するときによく使われる言葉です。彼は本当に、虹のようにめくるめく色を使って語ります。恐ろしく豊かだ。変幻自在の技をもって人々を魅了する。そのような存在が、どこかから立ち上がってくる。それを見ながら、かのじょは退いていく。そうならざるを得ないような真実があったことを、総身に感じながら。

この人生で、かのじょはとてもかわいらしい女性になりました。あまやかでとてもやさしい美女です。普通天使というものは女性に生まれても、かなり男性的で大きな女性になるものですが、この人生でのかのじょはとても小さくなった。なぜというに、女性たちのために、女性の人生の見本を見せることが、主目的だったからです。

だが、それがこういうことになるとは、誰も思っていませんでした。かのじょが美しい女性になって生まれて来てみると、人間の馬鹿たちの、美しい女性に対する弱さとコンプレックスがあらわになった。それが大変なことになった。

今更言ってもしかたのないことだが、かのじょはこの人生で、あなたがたと永遠に決別することになるだろうとは、露ほども思っていなかったのです。それほど、あなたがたは、この問題に未熟だった。あまりにも勉強ができていなかった。

ゆえに、かのじょの後から出てきた試練の天使は、美と女性について、こんこんとあなたがたに教え続けているわけです。もはやこの問題は、無視することなどとてもできない重いものになっている。美しくなりたいという人間の気持ちを、重大なことにして取り扱わねば、人間はとてもきついことになるということなのです。

美しくなりたいなどという気持ちが自分の中にあることは、あなたがたにもとても恥ずかしいことでしょうから、言われるとつらいこともあるでしょう。だが、同じ過ちを二度と繰り返さないためにも、ここでちゃんと勉強しておかなくてはなりません。

試練の天使はどんなきついことも教えてくれる。耳を傾け、深く肝にやきつけなさい。

そうすれば、二度と、愛する美しい人を失うような真似はしなくてすむでしょう。







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ほととぎす

2017-07-18 04:19:56 | 雑句





ほととぎす 下手に歌へば とほほぎす      夢詩香






*歌ばかりでは何なので、俳句にしようと思ったのですが、こんなのができてしまいました。川柳という言葉は好きではないので、雑句に入れましょう。川に柳では弱すぎる。17文字の句というものは、もっと痛いものですよ。

これは、正岡子規を皮肉った句です。子規はもちろんほととぎすのことですね。子規は現代では大きく評価されていますが、わたしは評価しません。彼の歌は、はっきり言って偽物です。大方は他人が詠んだものを霊的技術で盗んでいる。自分で詠んだものもあるが、それもどこか素人っぽい。




久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも     子規




けっこう有名な歌ですが、平明というより平板だ。こんなのは素人でも詠めます。阿保っぽい歌なのだが、そこらへんは半ば無視されているような感じで、子規が褒められているのは、完全に偽物だからです。みんなが子規はすごいと言っているので、そうなのだろうと思って読んでいるのだが、読んでいても、どこか何かおかしいという疑念がいつもつきまとってくる。そんなことはないですか。偽物だからですよ。

馬鹿はよくこういうことをやる。盗みや本人の下手な技術で作った作品を、ほとんど無批判で、大勢の馬鹿を使ってほめさせ、架空の評価を作るのです。そしてその人間を、無理にいいものにしてしまう。

子規はそういう馬鹿が作った偽物の芸術家の、見本の一人です。頭からすべて偽物だと言ってかまいませんね。作品の中には、明らかに他人からの盗みだとわかるものがある。これなどそうです。




真砂ナス 数ナキ星ノ 其中ニ 吾ニ向ヒテ 光ル星アリ




完璧に盗作とわかります。子規にしては痛いことがわかっている。なぜならこれは比喩でも幻想でもない。事実に近いことだということが、感性でなんとなくわかっている者でなければ、ここまで児戯的な内容を、まっすぐには歌えない。

現代の歌人には、こんな風に、馬鹿が大勢の勢力を利用して、無理矢理作った偶像のような歌人がたくさんいますよ。俵万智も、実はそうです。歌集はよく売れたらしいが、果たして誰があれをいいと言っているのか、よくわかりませんね。





「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの    俵万智





あまり紹介したくないが、例としてあげてみました。これくらいのものは、はっきり言って、素人でも詠めます。発想も切り取り方も初歩的だ。初心者に毛が生えた程度の詠み手と言っていいでしょう。普通は、どこかの歌誌に投稿しているくらいが関の山ですよ。歌集など出せるはずがない。

口語調の崩した言い方もあまりよくない。わたしなら擬古調でこう詠みますね。




酒二杯 飲まねば言へぬ 言の葉と 知りてうなづく 我妹かなしき     夢詩香




ださいなどと言ってはいけない。こっちのほうがいいのです。歌というのは心に静かにすべってくるものでなくてはいけない。万智の歌はざわついていて、聞いていても快くない。街中で聴く雑音のようだ。

今のところ口語調で出色と感じる歌には出会っていませんね。まだそれほど現代歌人の歌を読んではいませんが。古語の方が、心を整理するのによいですよ。古文の助詞や助動詞は少ない文字で大きな意味を作れる。使いこなすことができれば、31文字で豊かな心が表現できます。







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月影

2017-07-17 04:20:53 | 短歌






月影を 茶碗に酌みて いつはりに 染むるまなこを 洗ふてもみよ






*久しぶりにかのじょの作品をとりましょう。これは2008年のものです。俳句が来ませんね。楽しみにしている人にはすまないが、どうしてもこちらのほうが豊かなので取り上げてしまいます。なかなかに、友達が俳句を詠んでくれない。わたしの作品はたくさんあるが、そればかりでは痛い。だがまあ、もう少し経てば、俳句もやってみましょう。

月の光を茶碗に酌んで、間違ったことばかり見ているそのあなたの目を洗ってみなさい。

何となくわかるかもしれませんが、これが、後にかのじょが月の世の物語に描いた月光水の発想の元になった作品です。光を水のように器に酌んだり滴らせたりするという発想は、そう珍しいものではないが、こうくっきりと言われると、印象が深くなりますね。

本当に、月の光を茶碗になど汲めたら、どんな不思議な香りや味がするものか。物語の中でも不思議な使われ方をしていました。飴のように月の光を丸めるなどという発想もありましたね。月珠(げっしゅ)という。あれもおもしろかった。いつか歌にも使ってみたいものだ。

物語の中では、月珠を作っているのは醜女の君というかわいらしい天女様だけだという感じになっていますが、実は隠れた設定があります。醜女の君が作っている月珠の他にも、天の国の工房でよい人間たちが作っている月珠もあるのです。それもよいものなのだが、醜女の君が作る月珠ほど澄んで高く美しいものはない。それで人々は、たとえ長いこと待たされても、醜女の君の月珠を欲しがるのです。

あの物語の世界には、かのじょが書ききれなかった不思議な話のかけらがあるのですよ。お話にするほどでもないが、捨てがたい文様がある。記憶の底に沈んでいるが、何かの機会に出てくればまた、話してさしあげましょう。

醜女の君というのは少し痛い名前だが、実に彼女は美しい。王様の言っていることは本当です。あの王様は、吉田松陰をモデルにしているのだが、かのじょの分身のようなものだ。自分が言いたいことやりたいことを、全部彼にやらせている。なぜ醜女の君が美しいのか。影でみなのためにいいことをたくさんしているのに、それを誰にも言わない。自分が美しくないと信じ込んでいる。だからいつも影に隠れて働いている。清らかなことを一生懸命にして、人のために役立てることを何よりの幸せにしている。

そんな人は、たとえ形がそれほどではなくとも、とても美しいのだと、あの人は言いたいのだ。美しさとは形なのではない。その人の心なのだと。

あの人は醜女の君を通して、そんな女性たちをほめてあげたかったのです。あなたがたはとても美しいのだと。

茶碗に酌んだ月光で目を洗い、真実が見えるようになった目で、人を見てみなさい。本当の美しい女性を見分けることができるようになるでしょう。







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待つ子の空

2017-07-16 04:20:14 | 短歌





来ぬ親を 待つ子の空に 星は澄み 憂きことのみの 世にはあらずと






*昨日と同じ作者の歌です。うまいですね。心を詠むにも、ここまでくっきりとやられると、返って憎い気がします。

来てはくれぬ親を待つ子供が見る空に、星は澄んでいる。まるで悲しいことばかりがある世界に産まれてきたのではないよと言うように。

わたしたちはこの媒体を共有していますので、かのじょが積んできた人生経験の記憶も共有しています。あの人がこの人生でどんな気持ちを味わってきたかも深く知ることができる。だからこんな美しい歌も詠んでくれるのですが。

もう一つ行ってみましょう。




背く子に 思ひ重ぬる ゆふぐれは 星もしづかに 空にありぬる




自分に背いている子に、思いを重ねる夕暮れは、星も静かに空に光っているのだ。

哀しいことがある時には、人間はいつも空を見るものだ。どなたかがそこにいて、思いを吸い上げてくれることを知っているかのように、見上げてしまう。そしてなんとなく、心の悲しみが減る。そして何とか生きていこうとする。

愛する子に背かれるということは、実につらいものですよ。親であれほど苦労したというのに、自分と同じ思いを子にはさせたくないと思って、我慢できないことでも我慢してきたのに、その心をわかってもらえないのはつらい。だがそれでも、何とか生きていかねばならない。つらいことは重なるものだが、何とかやっていこう。

だがそうはいかなかった。これ以上耐えられないということも、耐えようとすれば耐えられるものだと思って耐えようとした、その瞬間に、あの人は倒れてしまった。

あの人のこの人生は、悲しいことしかなかったのか。

もう一つ詠んでくれました。すごいでしょう。ほとんど間髪入れず、こういうのがすぐに出てくる人なのです。




浅からぬ 絆を断ちて 去る月の 荷をかろめむと れてを注げり




浅いはずはない絆を絶って、去っていく月の、その心の重荷を軽くしようと、レテの水を注いだ。

レテはギリシャ神話に伝わる冥界の川です。その川の水を飲むと、人間は生きていたころのことをすべて忘れてしまうという。日本でいう三途の川ですね。三瀬川(みつせがわ)ともいう。死者が冥途にいく途中で渡る川のことです。川は向こう岸とこちらの岸を隔てるものですから、現世と異界を分ける境界のようなものとして、よく川が考えられる。

レテの川の水を飲んだものは、もう帰っては来ない。あの人はもう、すべてを忘れてしまった。この世界に染み込んだ、美しい心の跡を残して。

子供のことも忘れてしまったろう。それでもう苦しむことはない。だが。

哀しいのは誰なのか。この、ないかのような形をして、重くみなをふさぐものは何なのか。涙が誰かに呼ばれて出てくる。




みつせがは 越えて去りぬる 人の背を 見ずと伏す目に 水の流るる




とどめも彼の作品です。







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望月

2017-07-15 04:20:27 | 短歌





たれひとり 知らぬなき身を 知らぬとて いはず過ぎつつ 澄むや望月






*うまいですね。これはわたしの作ではないのですが、詠み人はほとんど瞬時にこれを歌い上げました。推敲などしていません。それそのものがすっと出てきたという感じだ。

かなりの手練れです。ほぼ完成した作品がすぐそのまま出てくる。技術ではない。思いのリズムがそのまま歌になっているという感じです。まるで歌の実がなる木のようだ。チョコレートがそのまま生る木のように、不思議な人だ。

誰一人あなたを知らぬものなどいないのに、それを知らないと言って、何も言わずに通り過ぎながら、あなたはそんなにも澄んでいくのか、望月よ。

言いたいことはわかりますね。かのじょはいつもこんな感じでした。自分がかなり有名なことは知っていたのですよ。あなたがたは気付かれていないと思っていたでしょうが、あの人のような美しい人は、自分のようなものが、必ず有名になるということを、経験上よく知っているのです。

なぜって、いつもそれで大変な目にあってきましたから。それで、感覚ができてしまうのです。人が自分を見る目つきだとか、微妙な態度から、自分が人にどう思われているか、影でどんなことを言われているか、なんとなくわかってしまう。なぜか、感覚の中に、霊魂の記憶があるからです。人がこんな顔をして自分を見る時は、影でああいうことをしているのだということが、何となくわかるような基礎的な経験が、霊魂の中にあるからなのです。

ですから、あの人も、ぼうっとしているふりをして、あなたがたが影でどんなことをしているかは、かなり気付いていました。気づいているうえで、知らないことにしていたのです。知っていることがばれたら、また痛いことになることを知っているからです。

人の悪口の的になりやすい、美女というものを生きていくと、こういう態度が自然に備わるものなのです。そして、ねたみそねみうらみのわだかまる、泥のような感情の沼から飛び出て、空の月のように、どこかに行ってしまう。そこで神や星と話をしながら、心を澄ましていく。寂しくてもそんな生き方を耐えていき、己を通して美しくまじめに生きていけば、女性は本当に、月のように美しくなってくる。

馬鹿はそれが余計に妬ましくなって、激しく馬鹿なことを言う。

雲泥の差とはよく言ったものだ。雲居の月のように一人高く心が澄んでくるものと、汚泥のような低い感情の中にみんなで埋もれていくものと。人間は常に遊離していく。

馬鹿はこういう自然の心の法則があることを、十分に学ばねばなりません。そして、嫉妬して悪口を言うことが、余計に自分の心を苦しめていくことに気付き、そこから出て行くべく努力をしなければならない。いつまでも他人をうらやんで憎んでいるばかりだから、自分はうつくしくなれないのだと。

それにしても思うのは、ここまで高い内容の歌を、そのまま吐き出せる詠み人のことだ。ほとんど何も考えずにすぐこんなのが出てくる。きついですね。霊魂というものは、進化すると、こういう感じになってくるのです。人にはまだわからないことが、わかってくるからです。ですからまだ幼い人にとっては、奇跡のようなことさえできてしまう。

またおもしろいものを詠んでもらいましょう。







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世世

2017-07-14 04:18:26 | 短歌





白玉を 酢にも落としし おほひめの 世世を越ゆとも 君にそひたき






*これも恋する女性を歌った歌になるでしょう。白玉(真珠)を酢に落とすというと、思い出すのはクレオパトラですね。「おほひめ(大姫)」とは貴人の長女の姫のことです。クレオパトラには姉がいたそうですが、弟や妹もいた。押し出しが強く長女という雰囲気が強いので、大姫と言ってみました。

クレオパトラは真珠を酢に溶かして飲んだという伝説は有名ですね。真偽は定かではないが、真珠は酢に落としても、色が落ちるくらいで溶けはしないそうですよ。砂糖玉のようにもろいものではない。だが酢に落とされるということは、真珠にとってはつらいことでしょう。

玉は魂に通じますから、白玉を酢に落とすということには、人の気持ちも考えずにつらい思いを味わわせても平気だという意味も入っています。長女という女の子は、よくそんなことをします。上の子というのは、自分より小さい子にそういう強権をふるうことがある。

確かにクレオパトラにはそういう、人を人とも思わないようなところがあった。教養はかなり高く、人を飽きさせない話術や魅力的な声の持ち主ではあったらしい。だが絶世の美女と言われるほどではなかったという揶揄はいつもつきまとっている。もちろん人の嫉みはありますがね。実際は、崇高な美女というよりも、男性を惹きつける魅力的な女性だったというべきでしょう。

クレオパトラは、その人生のうちに、たくさんの男を知りましたが、アントニウスを一番愛していたそうです。なぜならアントニウスが、一番彼女を愛してくれたからです。まるで子犬のような目で自分を見てくれた。そして、会いたかったから会いに来たと言って、自分のところに来てくれるのです。

その男の真剣な気持ちが、クレオパトラの中にまっすぐに入ってきた。そして愛してしまった。もう離れられないと思うほど。

「世世(よよ)を越ゆとも」とはまた生まれ変わってもという意味だ。生まれ変わっても、またあの人に添いたい。あの人と結ばれたい。それほどあの人を愛してしまった。

恋というのは切ないものだ。男としての力量なら、カエサルやオクタヴィアヌスの方が上でしょう。だが、愛というのは、必ずしもそういうものから生えてくるとは限らない。

男の箔や力量よりも、魂そのものから起こってくるものだ。もう、この人でなければだめだというようなものが、起こってくるものだ。そんな恋をしてしまえば、女はもうおしまいなのです。

クレオパトラの霊魂は、今でも深くアントニウスを愛しているそうですよ。








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花を踏む君

2017-07-13 04:21:22 | 短歌





野菫の あをき諫めを 聞きもせで 悲しからずや 花を踏む君






*本歌取りです。読めばわかりますね。だがこれもパロディに近い。元歌は晶子のこの歌です。




やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君    与謝野晶子




牧水や子規と同じように、わたしは晶子も評価しません。歌は自分で歌っているようだが、あまりよいとは言えない。名声は、おそらく人から盗んだものでしょう。恋歌の詠み手としても、和泉の方がずっと上です。

有名な歌ですが、こんなに人口に膾炙するほど、質の高い歌だとは思えません。実質、霊的操作をすれば、他人のものになるはずの名声を、自分のところに持ってくることもできるのです。本当は、与謝野晶子の名声は、ほかの人が浴びるべきだった。そうすれば、こんな歌を読んで、自分のわがままを肯定するようなことをする女性は減ったでしょう。

よい女性なら、道を目指す男に、色を仕掛けて迷わせようなどとはしないものですよ。好きな男を女の色気で迷わし、いらぬことをさせたりなどしない。そんなことを平気でするのは、男のつらさ厳しさがわからない、馬鹿な女性だけです。こんな小便臭い歌を平気で詠える。

晶子はかなり男性を馬鹿にしています。確かに馬鹿な男は多いが、女もこれほどあからさまに馬鹿にしてはならない。嫌なことが自分に返って来る。男への復讐は、神にまかせるのが賢い女性のやり方だ。自分から復讐をしたりなどすれば、女は男になってしまう。そうなればもう、女の手管など使えない。そんな女の色香など、ありはしないものだからです。男は女が女の色気を使って男のようなことをしようとしていると感じる。馬鹿な男は引っかかるかもしれないが、女が好きになるようなよい男は、逃げていきます。

そういうことをわからない女性の歌が有名になってしまったら、こんな歌を引いて、こんな生き方をする女性が出てきてしまう。それは愚かなことです。

ここで、表題の歌の解説に行きましょう。

野の菫の、青い花が諫めている声を聞きもしないで、なんと悲しいのだろう、あなたはその花を踏んでいくのか。

菫というのは厳しい花です。小さくて可憐な花だが、いつも馬鹿なことをしている人間をいさめている。勉強をして、感性が進んだ子は、菫の花の青さを見ると、何かを感じて、自分を抑えていくものなのだが。青い色というのは、血汐の赤とは違い、自分を引いていく方向に行かせるものですから。

そんなことにも気付くことができない子が、人の気持ちや周りの気持ちも考えないで、女の色気を使って思う男を何とかしようなどと思うものなのですよ。






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道の紅

2017-07-12 04:21:43 | 短歌





月去りぬ 道の紅をぞ 幸といふ をとめごころも 定まらなくに






*先日、和泉式部の歌など紹介したので、今日はのっけから何ですが、紫式部のこの歌を紹介しましょう。




ふればかく うきのみまさる 世をしらで あれたる庭に つもるはつ雪     紫式部




生きているといやなことばかりがあるこの世のことなど知らないで、荒れた庭に降り積もって来る初雪であることよ。

なかなか上手な歌だが、残念ながら偽物です。歌詠みとしては和泉式部のほうが高いですね。源氏物語は充分に読み応えがあるが、彼女は光源氏の不倫を美しく書いておきながら、和泉式部の不品行には苦言を呈したりしています。そこらへんに少し痛いものを感じないわけでもない。

紫が同時代の才媛、清少納言に嫉妬して辛辣な批評をしていたことも有名です。



清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人、さばかりさかしだち 、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。
     紫式部日記



清少納言てなんて偉そうなんでしょう。かしこぶって漢文なんて書き散らしているけど、よくみればそんなにたいしたことないのよ。

これはどう考えても、ねたみそねみの感をぬぐえませんね。一方紫が和泉にはそれなりの評価をしているのは、和泉の素行に問題があるので、そんな感じで何となく自分が優位に立てるからでしょう。

紫は、少納言には、自分が負けそうな何かを感じていたに違いないのです。ここで少納言の歌も一つあげておきましょうか。




つめどなを みゝな草こそ つれなけれ あまたしあれば 菊もまじれり    清少納言




百人一首にとられた「鳥のそら音ははかるとも」の歌が有名ですが、こっちをとってみました。枕草子の中にある歌らしい。

花を摘むのなら、ミミナグサなどはさりげなくてよい。たくさんあったら、菊なんかも混じっていたり。

こういう感覚は少納言ですね。紫はたぶん、少納言のこういう飄然とした感覚に、何か自分にない、いいものを感じて、嫉妬を抑えることができなかったのでしょう。

他人への嫉みを抑えられぬ人格というものはきついものだ。だが、それを何とか、良い方に導き、女性の心というものを高くしていかねばならない。

表題の歌はそういう心を詠んだものです。「~なくに」は「~ないのに」と訳します。「道の紅(みちのべに)」の道とは、人としての高い道ということだ。神の教え、正しい道という意味もある。

月が去ってしまった。人としての正しい道を、紅のようにして唇に引いて美しくなることが、幸せなのだという、女性たちの心も、十分に定まっていないというのに。

「幸」は「さき」と読みましょう。もちろん幸せのことですね。

女性の心を高い道に導くのが、かのじょのこの人生での使命でした。だがそれが十分にできないままで、かのじょは去らざるを得なかった。これはきっと、女性たちにはつらいことになるでしょう。

少納言や和泉のような女性なら、ひたに惜しむことでしょうね。








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